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阪神チャペルセンター
礼拝メッセージ |
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「良い羊飼い」
ヨハネによる福音書10章11-16節 |
2月最初の礼拝をささげられる恵みを、感謝します。
毎日寒いですが、寒さの中に梅が咲き始めています。美しい花を咲かせ、私達に喜びを与えてくださる、神の創造の御業を思い、感謝します。
主イエスは、御自分のことを「良い羊飼い」であると、言われました。
主イエスがこのようにたとえを話されたのは、ヨハネによる福音書9章にある、生まれながらに目の見えなかった人を癒されたことの後でした。
安息日に癒しをされたことで、ファリサイ派は主イエスを批判し、受け入れようとしませんでした。主イエスは彼らの心の目は見えていないと指摘されました。
その後でこのたとえをお話になりました。
ヨハネによる福音書10章10節で、「盗人が来るのは、盗んだり、屠ったり、滅ぼしたりするためにほかならない。わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである」と言っておられます。
盗人たちとはどのような存在でしょうか。羊を滅ぼそうとするものすべてと考える事が出来ます。せっかく良い羊飼いに守られているのに、そこから引き離して、どこかに連れ去ってしまう者たちです。連れ去ったところで、羊は命を絶たれるのです。
この世には、キリストとの命の結びつきを絶とうとするような誘惑があります。キリストから目を離さないで、自分の弱さを認めたら、直ちに祈ることが大切です。
この良い羊飼いに導かれるのは、羊にたとえられる私たちです。
主イエスは、自分の羊を持たないただの雇われ人は、羊を守らないと言われました。
自分の羊ではないので、狼が来ると羊を置き去りにして、逃げてしまうのです。自分の命が大切だからです。
狼は、羊を奪い、羊は追い散らされてしまいます。羊はどうなるのでしょう。生きることができないのです。
良い羊飼いは、「羊のために命を捨てる」のです。
それは、主イエス御自身のお姿です。
主イエスがこの世に来られたのは、人の罪を背負われて十字架に架り、罪の贖いを成し遂げるためでした。
私達一人一人の為に、主イエスが命を捨てて下さったことを、忘れるようなことがあってはなりません。
主イエスは、御自分を犠牲にされて、私達を滅びから救い出してくださいました。
ヨハネによる福音書10章3節以下には、羊飼いと羊がどれほど親密な関係かが記されています。
羊は羊飼いの声を知っていて、その声を聞き分けます。羊飼いが羊の囲いの門を通って中に入ると、自分の羊の名を呼んで連れ出します。
羊は羊飼いを信頼し、ついて行くのです。
良い羊飼いは、羊が何匹いても、一匹一匹の名を知っています。
それほど深く羊を知っているのです。
主イエスは、「わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。」(ヨハネ10:14)と言われて、それは、父なる神が御子イエスを知っておられ、御子は父を知っておられるのと同じ関わりで、羊を導かれるのだと教えられました。
「それは父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。」(ヨハネ10:15)
父なる神と御子イエスは、計り知れない愛と信頼の関係で結ばれています。父と御子は一つなのです。
羊はもともと迷いやすい動物です。また、弱く、戦うこともできません。自分を守ることができないので、迷うとそのまま命を失うことが多いのです。
ですから、ルカ15章にあるように、羊飼いは100匹の内のたった1匹がいなくなったら、見つけ出すまで探し出すのです。大声で羊の名を呼んで捜します。羊を愛しているからです。その1匹は何ものにもかえがたい存在だからです。
羊飼いは、羊を見つけ出したら、友人や近所の人たちに「見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください。」(ルカ15:6)と知らせて、喜びを分かち合います。
このように、一人の失われた人が見いだされて、主イエスの許に帰る時、天では大きな喜びが湧き上がります。
人は、罪を持ち、失われたままで、神との関係は断絶したままでした。
神との和解は、独り子が十字架に架られ、命を捨てられることで、成し遂げられました。
罪の贖いをするためには、罪のない方の犠牲が必要でした。良い羊飼いである主イエスは、神の独り子であり、罪とは何のかかわりもないお方です。
パウロは、自分が使徒として宣教するのは、人を神と和解させる働きの為だと記しました。
「つまり、神はキリストによって世を御自分と和解させ、人々の罪の責任を問うことなく、和解の言葉をわたしたちにゆだねられたのです。ですから、神がわたしたちを通して勧めておられるので、わたしたちはキリストの使者の務めを果たしています。キリストに代わってお願いします。神と和解させていただきなさい。罪と何のかかわりもない方を、神はわたしたちのために罪となさいました。わたしたちはその方によって、神の義を得ることができたのです。」(Uコリント5:19―21)
キリストの十字架により、罪の贖いは成し遂げられ、信じる者は義とされた、その恵みにあずかる者は幸いな者です。
主イエスが十字架で命を捨てて下さったのは、御自分の意思でした。
主イエスが命を捨てて下さったのは、罪ある者のためでした。
「正しい人のために死ぬ者はほとんどいません。善い人のために命を惜しまない者ならいるかもしれません。しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。」(ローマ5:7,8)
その愛によって、今はキリストの犠牲によって義とされていることが約束されています。
主イエスは十字架で命を捨てられ、墓に葬られ、三日目に復活されたお方です。今、生きておられ、祈りに答えてくださるのです。
主イエスは良い羊飼いであり、私達はその羊であるというたとえは、この上もなく幸いな教えです。
わたしたちの生涯を、良い羊飼いが導き続け、豊かな命に満たして下さることを感謝します。
わき見をせず、脇道にそれず、ただ良い羊飼いの後に従いたいと思います。
主イエスの愛は、私達にだけ注がれているのでしょうか。主イエスは、「わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。」(ヨハネ10:16)と、続けて言われました。
新約聖書の時代、主イエスを信じたのは、まずユダヤ人でした。12弟子たち、主イエスに従い続けた婦人たちもユダヤ人でした。
しかし、福音はユダヤ人だけではなく、当時異邦人と呼ばれていた人々に伝えられていきました。囲いの外側にいた人々が、主イエスを信じたのです。パウロの宣教の母体となったアンテオケ教会は、異邦人の教会でした。国籍や人種を越えて羊は一つの群れとなって行ったのです。
主イエスは良い羊飼いとして、今も変わらずに羊の先頭に立って進まれています。
囲いの外にいる羊は、たくさんいます。
私達はここに素晴らしい救いと命があることを伝えたいと思います。
私達がこれからも歩む道は、決して平坦ではありません。石こがあったり、や大きな穴が開いていて、進むのに苦労することもあります。しかし、変わることのない良い羊飼いが、先立っていてくださいます。
羊に平安と命を与え、いつも憩わせてくださいます。
主イエスという良い羊飼いにすべてを委ねて、賛美をうたいつつ、この世の歩みを進めていきましょう。
今週のみことば
「わたしは良い羊飼いである。
良い羊飼いは羊のために命を捨てる。」
ヨハネによる福音書10章11節
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