阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2026年2月15日
第3聖日礼拝
「神の栄光のために生きる」
コリントの信徒への手紙T10章31節

 2月第3週を迎え、きょうも心を一つにして礼拝できる恵みを感謝します。
 先週は2026年度の教会宣教会議を行いました。新しい恵みをいただき、新たな信仰の指針が与えられたことを感謝したいと思います。
今年度も信仰を持って進んで参りましょう。
主イエスを救い主と信じて受け入れ、救われた者の幸いは数えきることができません。
日々命の御言葉をいただき、魂が生かされていることが、救われている者の証しです。永遠の命が与えられていることの確信を持っています。
「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。」(Tテサロニケ5:16−18)
この御言葉をいつも思い起こしながら生きる事が出来ます。
喜びと感謝、祈りの生活を知る事が出来ました。
主イエスを信じてから生き方を教えられました。
人は、誰しもが自分の為に、自分の幸せの為に、自分の生活の豊かさのために生きるのが当然と思っています。
良い学校に入学し、良い職業に就き、良い家庭を持つ事、社会的な地位を持ち、尊敬されて安定した生活がおくれること、これが幸福ということなのだと考えます。そのために努力します。うまくいかないと挫折感をもってしまうこともあります。
世の言う良いという基準もさまざまと思いますが、大体人は、このように考えるのではないでしょうか。
ところが、聖書はそのようには教えていないことに気づかされます。
神の栄光をあらわすという生き方の目標が示されたのです。
コリントの信徒への手紙T 6章19,20節には、「知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。だから、自分の体で神の栄光を現しなさい。」(Tコリント6:19,20)と記されています。
コリント教会には、様々な混乱がありましたが、残念なことに不品行もありました。コリントの町の丘には、大きな偶像の神殿があり、教会にさえ、偶像崇拝の悪い習慣が残っていたのです。
代価を払って買い取られるとは、当時、借金を返せなかった人が、奴隷となってしまったとき、その人の親戚や関係者が代価を支払って奴隷から解放する事がありました。
それを、真の神が人間に行ってくださいました。
罪人の為に神は御自身の独り子をこの世に送り、十字架で罪の代価を支払って、解放してくださいました。
人は生まれながらに罪を持ち、罪の為に滅びの道を進んでいました。
罪さえ分からずに知らず知らずに高慢でした。そのような者たちを愛して、キリストは十字架に架って下さり、その命で人を救って下さいました。
罪のしもべが義のしもべに変えられました。
罪から解放された者は、神の栄光の為に生きるという目的が示されたのです。
人の魂の奥深くに聖霊が宿られ、神の神殿とされているとは、なんと素晴らしいことではないでしょうか。心をしっかりと聖霊に明け渡さなければとも思うのです。
神の栄光を現す生き方は、クリスチャンの生き方の一番大切なことになります。これを忘れると、信仰はぐらつきます。いつの間にか世の中の考え方に流されてしまいます。キリストの十字架がぼんやりとしてしまっては、申し訳ないどころではありません。もう一度主イエスを十字架に架けるようなことになるのです。
神の栄光を現すとは、どういうことでしょうか。
まず、神の栄光をたたえ、賛美することです。日々、神を賛美し、ほめたたえることです。私たちの心と唇は賛美に満たされているでしょうか。
賛美は神をほめたたえるとともに、私達の心にも力と信仰を与えます。
試練の時や、苦しむ時にも賛美によって力が与えられるのです。
ダビデは最大の苦しみとなった時にも、まず神をほめたたえました。
「どのようなときも、わたしは主をたたえ わたしの口は絶えることなく賛美を歌う。わたしの魂は主を賛美する。貧しい人よ、それを聞いて喜び祝え。わたしと共に主をたたえよ。ひとつになって御名をあがめよう。」(詩篇34:2−4)
次に、神に栄光をお返しすることです。
人は、人に認められ、称賛されることによって満足する心があります。「ほめられたい、認められたい」という心です。
あるいは、「自慢」する心もあります。それらの心は神に栄光ではなく、自分に栄光を帰することにつながります。
もし、自分になにか良いと思われる特質があるなら、それは神が下さった賜物であることを感謝し、神に栄光をお返しします。
自分ではなく、主を誇る者であるなら幸いです。
天の父は隠れたことを見ておられる方です。人は見ていなくても、天の父はご覧になっておられます。「隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる」(マタイ6:6)のです。
また、クリスチャンは、神の栄光を反射させることができるのです。
御言葉をしっかりと心に蓄え、何をするにも御言葉を思い起こしながら生きるなら、神の聖さと、美しさの光を反射する者にしてくださいます。
「御子は、神の栄光の反映であり、神の本質の完全な現れであって、万物を御自分の力ある言葉によって支えておられますが、人々の罪を清められた後、天の高い所におられる大いなる方の右の座にお着きになりました。」(ヘブライ1:3)。
キリストの完全なお姿が示されている御言葉です。
人がキリストの十字架によって罪許され、救われて神の栄光の反映である主イエスによって聖い者とされるなら、それこそが神の栄光の現れであり、神の喜びなのです。
ようするに、クリスチャンによって伝道がなされ、だれかが救われるなら、それによって神の栄光は現わされるのです。
私達は、小さな存在かもしれません。しかし、そのような私たちに神は期待しておられます。
救われた者は、神ご自身を喜ぶ者です。良い事があれば喜ぶのが普通ですが、そうではなく、神ご自身を喜ぶことができるのです。
わたしたちの生き方のもう一つは、神を喜ぶことです。
喜ぶという言葉には、「楽しむ」という意味があります。神を喜び楽しむのです。
人の楽しみは何でしょうか。趣味、仕事、人への奉仕、さまざまなことが考えられます。
しかし、クリスチャンはまず御子イエスの十字架の救いによって、永遠の命を与えてくださった神を愛して喜ぶのです。
天の父に目を注ぎ、この方の御業を思います。
どうして小さな野の花も美しく咲くのか、なぜすばらしい果実や作物が実るのか、小さな蟻さえ命が与えられていることなど、天の神に目と心を注ぐと、そのすばらしさに心が躍ります。
天の父は、私たち一人一人を愛しておられます。その独り子をさえ惜しまないで下さったのです。
わたしたちの信仰の歩みを御覧になり、いつも支えていてくださいます。
神の栄光を現そうとしていても、自信がないような思いが湧き上がることもあります。そのような時こそ、しっかりと御言葉に立ち、祈りましょう。
神の聖い霊がわたしたちに宿っています。信仰の力に満たされます。そして、さらに神に近づき祈る事が出来ます。弱さや思い煩いすべてを神が引き受けてくださいます。
わたしたちの生活の全てが神の栄光の為であるように、願いと祈りをもって神に近づきましょう。
「なにをするにしても、すべて神の栄光を現わす」、幸いな人生なのです。

今週のみことば
「だから、あなたがたは食べるにしろ飲むにしろ、
 何をするにしても、すべて神の栄光を
 現わすためにしなさい。」
 コリントの信徒への手紙T 10章31節




 ページのトップへ
  
2026年の礼拝メッセージ
  
他の年の礼拝メッセージへ


トップページへ