阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2026年3月1日
第1聖日礼拝
「最も大いなるもの」
コリントの信徒への手紙T13章13節

 3月に入りました。最初の日曜日の礼拝をささげられることを感謝します。
天の父は太陽を昇らせ、雨を与え、花や作物を育ててご自身を現わしていてくださいます。命の源である父を崇めます。
きょうもコリントの教会への手紙の中から御言葉をいただきましょう。
すでにお話ししましたが、コリントの教会には様々な問題が起こっていました。コリントの教会は、パウロの第二回目の伝道旅行の時に、1年6カ月の間伝道して、教会が建て上げられました。
パウロがコリントを離れた後、教会には問題が起こっていました。それぞれが自分の拠り所とする指導者を主張し、不品行が行われ、集会の混乱や、偶像に備えられた肉についての論争もありました。
教会が分裂してしまうような危機に陥っていました。
パウロは手紙を書き、教会が正しく歩む事が出来るようにと、細々と教えています。
これらの問題の中心は、一体どこにあるのでしょうか。
聖書の教えの中心である、「愛」が忘れられていたからなのです。
コリントの信徒への手紙T 13章は結婚式でも朗読される箇所です。
4節以下に、「愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。」(Tコリント13:4−7)と記されています。
最初の「愛」という言葉に自分の名前を入れてみると、自分の心の貧しさがわかると言われます。忍耐も情け深さにも欠けていることが分かります。
神と人の前に愛の欠如を覚えさせられるのです。
御言葉に自分の姿を映し出して、自分は忍耐強くもない、情け深さも浅く、時には人を妬むこともある。自慢や高慢も持ち、人を見下げていることさえあることに、気が付くなら幸いなことです。
しかし、「愛」という言葉に「イエス様」を入れてみるならどうでしょうか。主イエスのお姿と愛を見い出すのです。
主イエスが私たち罪あるすべての者のために、十字架で命を捨てて下さったお姿に愛を知る事が出来ました。
ここで愛という言葉が使われていますが、人間の愛ではなく、神の愛、アガペーの愛であることを覚えたいと思います。
人間の愛、エロースは、価値あるものを求める愛です。自分にとって価値のあるものを愛します。逆に言えば、価値のないものはいらないということになります。限定的な愛です。
神の愛アガペーは、他の為に自分を与える愛です。キリストの十字架に現わされた犠牲の愛を意味します。
パウロは、様々な問題解決の方法は、正しい信仰であり、その教えはキリストの愛による一致だと教えました。
教会の目的の第一は、「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝える」(マルコ16:15)ということです。
教会が分裂分派で揺れているなら、教会の大切な働きは進められません。
パウロは、やがて主イエスが再び来られることを待ち望み、「動かされないようにしっかり立ち、主の業に常に励みなさい。主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならないことを、あなたがたは知っているはずです。」(Tコリント15:58)と励まし、勧めました。
人は主イエスを信じて救われていながら、完全ではありません。弱さを持つ者です。ですから、時々問題を起こし、あるいは躓くことがあります。大切なのは、どのようにして正しい方法で起き上がり、信仰によって進む事が出来るかなのです。
主イエスは、「愛」そのもののお方です。私たちの心の中にお入りくださいます。主イエスは心に平安を下さいます。主が言われるように、主の平安は世のものとは違います。
世の平安とは、外から得られるもので、外からの要因が必要です。
自分の心を慰める何か良い事などが考えられます。ある意味、自分の欲が満たされれば、平安が一時的に感じられることに繋がります。
人からの慰めの言葉とか態度、あるいは理解が欲しいとも思うのですが、それは真の解決ではありません。
主イエスのくださる平安は、内側から沸き起こる平安です。
外側からのものは一切関係ありません。どのような状況の中にも平安はあります。主イエスとの結びつきだけが条件です。
まことのぶどうの木である主イエスに繋がっている枝は、ぶどうの木の命で満たされています。豊かな実を結ぶ事が出来るのです。
私達に必要なのは、主イエスといつも結ばれていることです。
今、私達は肉の目で主イエスを見ることはできません。ですから、「今は、鏡におぼろに映ったものを見ている」(Tコリント13:12)という表現がされています。昔の鏡は、今の鏡のようにははっきりと映りませんでした。私達は主イエスというお方を、御言葉を聞いて、信仰を通して見ています。それを「鏡におぼろに映ったものを見ている」と表現しました。
やがて主イエスのお姿を、顔と顔を合わせて見る時が来るのです。その時には、預言も異言も知識も廃れるが、愛は決して滅びない、無くなることがないのです。
そして、今を生きる私たちに「信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である」
(Tコリント13:13)と教えています。
信仰を通して希望が生まれ、それらを力強め結ぶ力がアガペーの愛なのだととらえることができます。
愛がなければ信仰も希望も消え去ってしまうのです。
世と世のものはすべてが変わり、やがては失われていきます。人もそうです。

若い時は健康も能力も備えられていて、力強く生きることができます。年がたてば、いつしかすべてが衰えていくのが世です。
しかし、御言葉は希望を語っています。
旧約聖書のゼカリヤ書は、厳しい状況が変わらない民に向かって語られた言葉です。
どのような状況でも悔い改めて神に立ち帰るように、語られています。
そして、神に希望を持ち続けることが示されている書です。
希望とは、信仰によって神がもたらされる将来を待つことです。
神が語られたら必ず成就することを信じて待つところに、希望があります。
「夕べになっても光がある」(ゼカリヤ14:7)
人生の終わりが近づいていても、信じる者にはなお神の光が輝き続けているのです。神の愛の光に満たされているからです。
教会とクリスチャンに与えられている神からの召しは、宣教することです。
アガペーの愛が満ち溢れるなら、必ず人は救われます。
主イエスは、「互いに愛し合うならば、それによってあなたがたが私の弟子であることを、皆が知るようになる。」(ヨハネ13:35)と教えておられます。
アガペーの愛をお互いが持ち、愛し合うことによって、見えない主イエスを現す事が出来ます。主イエスの豊かな臨在が現わされます。
クリスチャンである私達は、主イエスの弟子として召されています。
主イエスにより選ばれて召された者には、主イエスの愛が満ち溢れます。
「互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である」
(ヨハネ15:17)
アガペーの愛を知った者たちは、この命令に従いたいと願います。
聖霊の満たしを求め、神の愛の満たしを求め、キリストの愛を語り続ける者とされて、用いられましょう。

今週のみことば
「それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。
その中で最も大いなるものは、愛である。」
コリントの信徒への手紙T13章13節


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