阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2026年3月8日
第2聖日礼拝
「土台はキリスト」
コリントの信徒への手紙T3章9-17節

 天の父の変わることのない愛に守られて、きょうも礼拝の民として御前に進み出ることを許され、感謝します。
礼拝は私たちの信仰と生活の基礎です。きょうも心を合わせて神を崇めましょう。
コリントの信徒への第一の手紙3章9節には、「わたしたちは神のために力を合わせて働く者であり、あなたがたは神の畑、神の建物なのです。」(Tコリント3:9)とあります。
パウロは、神の建物である教会について教えようとしていました。
「わたしは、神からいただいた恵みによって、熟練した建築家のように土台を据えました。そして、他の人がその上に家を建てています。ただ、おのおの、どのように建てるかに注意すべきです。イエス・キリストという既に据えられている土台を無視して、だれもほかの土台を据えることはできません。」(Tコリント3:10,11)。
パウロはコリントに1年6か月とどまり、伝道を続けてコリント教会が建て上げられました。
大変な迫害がありましたが、神からの力強い励ましがありました。
「恐れるな。語り続けよ。黙っているな。わたしがあなたと共にいる。だから、あなたを襲って危害を加える者はない。この町には、わたしの民が大勢いるからだ」(使徒18:9,10)。
天の父は、コリントの町のまだ救われていない人々や、危害を加えようとさえ思う人々を、「わたしの民」と呼ばれました。
神は私たちにも、今、同じ御言葉をかけておられます。「わたしの民」に福音を伝えるようにと励ましておられるのです。
パウロは、神によって贖われ、召された者たちの群れであるエクレシア、すなわち教会を建物にたとえて教えようとしています。
ギリシャ語のエクレシアは、「召し出された人々」という意味があります。
一般的に人々は教会という言葉に、十字架をかかげた建物を連想します。教会とは、建物の事ではなく、神によってイエス・キリストに罪赦された者たちの群れを言います。
ですから、ここでパウロが言わんとしていることは、建物の土台ではなく、エクレシアの土台についてであることが理解できるのです。
パウロは神の恵みにより、知恵のある熟練した建築家のように土台を据えました。
パウロは、自分の働きは教会の土台を据える事だと考えていたようです。
「このようにキリストの名がまだ知られていない所で福音を告げ知らせようと、わたしは熱心に努めてきました。それは、他人の築いた土台の上に建てたりしないためです。」(ローマ15:20)
パウロは福音を伝え、教会の土台を据え、あとの働きを他の人たちに任せていきました。
コリントの教会にもしっかりと土台を据えたと思ったのですが、教会が揺らぐような問題が起こってしまいました。
パウロは土台を据えましたが、あとは好きなように自由に建ててよいわけではありません。
ですから、「ただ、おのおの、どのように建てるかに注意すべきです」(Tコリント3:10)と記しました。
パウロが注意深く据えた土台とは、イエス・キリストという土台です。
エクレシアの土台はキリストなのです。
教会を建物にたとえるなら、土台はイエス・キリスト以外にはあり得ません。もし、キリスト以外の土台を据えるとしたら。教会ではありません。
「この土台の上に、だれかが金、銀、宝石、木、草、わらで家を建てる場合、おのおのの仕事は明るみに出されます。かの日にそれは明らかにされるのです。なぜなら、かの日が火と共に現れ、その火はおのおのの仕事がどんなものであるかを吟味するからです。だれかがその土台の上に建てた仕事が残れば、その人は報いを受けますが、燃え尽きてしまえば、損害を受けます。ただ、その人は、火の中をくぐり抜けて来た者のように、救われます。」(Tコリント3:12―15)。
ここでパウロが言っている「だれか」とは、コリント教会の指導者たちの事です。
「金、銀、宝石」あるいは「木、草、わら」と、建物の材料の事を言っていますが、これは尊い建物に用いられる材料と、そうではない普通のものに用いられる二組の材料を言っています。
3章16節から、「神の神殿」について記しています。
「金、銀、宝石」は、神の神殿を建て上げるのにふさわしい材料であって、「木、草、わら」は、普通の建物の材料と思えます。
「金、銀、宝石」は、神の神殿を建てるためにふさわしく、火の吟味に耐えられるものと考えられています。
それは、キリストの言葉、十字架の言葉で建て上げられる教会です。
一方、「木、草、わら」とは、いったい何を指しているのでしょうか。
この世の知恵です。この世の考えです。
それぞれの材料で建物が建て上げられて行きます。
この世のものは儚く、移り変わり、いつしか失せていきます。
建物が完成して、やがて、その仕事が明らかになります。イエス・キリストが再びおいでになる時に、キリストの火は、おのおのの仕事を明らかにします。
キリストという土台の上に、それにふさわしい材料、すなわち神の御言葉によって建てられた建物は、燃え尽きることはありません。
教会は、神の言葉によって建て上げられて行くということです。
コリントの教会は、パウロが労苦の末に建て上げられた教会です。キリストという土台が据えられました。しかし、その上にふさわしくない物をもって建て上げられようとしていました。
教会の混乱、ねたみと争いが絶えずありました。人の思い、知恵では神の教会は建て上げられません。
やがて、キリストが再び来られる時、火で吟味されます。火で燃えて「損害を受ける」のです。
損害を受けるとは、働いたのに、報酬を受ける事が出来ないという意味です。
しかし、滅びるわけではありません。その人は、火の中をくぐり抜けて来た者のように救われます。」(Tコリント3:15)と、憐みの約束があります。
イエス・キリストは、その人の仕事ぶりではなく、「憐れみと信仰」によって救って下さいます。
16節以下に、「あなたがたは、自分が神の神殿であり・・・」と記されています。神によって召され、救われた者の中に聖い神の霊がお住まいくださり、神殿として下さっていることを知らなくてはなりません。
教会という建物そのものに、神の臨在があるのではありません。そこに集い礼拝する者の内に御霊が宿っていて、それがあふれる臨在となって現れるのです。
私たちは聖霊に満たされ、神の前に礼拝をささげます。まだ主を信じていない人々は、その臨在に心を明け渡すのです。
私たちは、キリストの教会を建て上げていきます。祈りと御言葉によって、霊的な成長をしつつ、福音を伝えていきます。
「神の神殿を壊す者」とは、キリストの臨在を否定し、拒む者と考えられます。
コリントの教会の問題や内輪もめは、キリストの教えとは全く反対の事でした。神の神殿を壊すようなことでした。
わたしたちはそうであってはなりません。罪深い私たちの為に、十字架で命を捨てられたキリストが土台となって下さいました。
自分の内に聖霊がお住まいになり、神の神殿とされていることは、本当に不思議な恵みです。
御言葉と祈りによって、また、福音にふさわしい生き方を探りながら、贖われた者の歩みを正しく進めて参りたいと思います。

今週のみことば
「イエス・キリストという既に
 据えられている土台を無視して、
 だれもほかの土台を据えることはできません。」
 コリントの信徒への手紙T3章11節


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