阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2026年4月5日
第1聖日イースター礼拝
「復活の朝」
マルコによる福音書16章1-8節

 イースターをお祝い致します。
イースターは、復活祭とも言われます。主イエスは、全世界の罪を贖うために、十字架に架り命を捨てて下さいました。
主イエスの十字架がなければ、罪の許しはなく、人は罪の中に滅びの道を進むほかありませんでした。
神は罪人を愛され、その独り子を世に遣わされました。主イエスは全世界の罪を背負われて、十字架で命を捨てて下さいました。
「彼が刺し貫かれたのは わたしたちの背きのためであり 彼が打ち砕かれたのは わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって わたしたちに平和が与えられ 彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。」(イザヤ53:5)
イザヤは、主イエスの十字架の赦しをこのように預言しました。
復活の朝の出来事について、マルコは記しました。
「安息日が終わると、マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメは、イエスに油を塗りにいくために香料を買った。そして、週の初めの日の朝ごく早く、日が出るとすぐ墓に行った。彼女たちは『だれが墓の入り口からあの石を転がしてくれるでしょうか』と話し合っていた。」(マルコ1:1−3)。
主イエスが十字架で死なれたのは、金曜日です。金曜日の夕方から土曜日、すなわち安息日が始まります。安息日には埋葬の準備をする事が出来ませんでした。
安息日の直前に、アリマタヤのヨセフがピラトに申し出て、主イエスの遺体を引き取り、大急ぎで墓に入れて、入口には大きな石を置いておきました。
婦人たちは、その様子を見届けていました。
安息日が終わったら、主イエスを丁寧に葬らなくてはならないと思っっていました。
当時の墓は横穴の墓でした。入り口には大きな石が置かれていたのです。男の人が、何人も力を合わせないと動かせないほどの石が置かれていたのです。
婦人たちが墓に行くと、すでに石は転がされていました。婦人たちが墓の中に入ると、白い長い衣を着た若者が座っていたのです。婦人たちはひどく驚きました。
この若者は、「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを探しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である。」(マルコ16:5−6)と語りました。
主イエスの御遺体に香油を塗り、しっかりと埋葬したいと思ってやってきた婦人たちは、主イエスの遺体が見当たらず、天使と思われる若者の言葉を聞いて、茫然としていました。
お墓は亡くなった人を葬る所です。生きている人はお墓にはいません。
ルカによる福音書の平行記事には、「なぜ、生きておられる方を死者の中に探すのか。あの方はここにはおられない。復活なさったのだ。」(ルカ24:5−6)と、天使たちが語っていることが記されています。
さらに、天使は、主イエスとガリラヤでお会いできることを伝え、弟子たちとペトロに復活を告げるようにと、言いました。
婦人たちはどうしたでしょうか。「婦人たちは墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである」(マルコ16:8)。
恐ろしくて、誰にも何も言えませんでした。
婦人たちは驚きと恐怖のために口を開くことはできませんでしたが、主イエスは弟子たちの所に来て下さり、復活されたご自身をあらわされました。
主イエスの復活を信じようとしなかった弟子たちの、不信仰と頑なさをお咎めになり、「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい」(マルコ16:15)と命じられました。
生きておられる主イエスとお会いし、弟子たちは主イエスの命令をお聞きしました。
わたしたちの持つべき信仰は、「主イエスは生きておられる方」という信仰です。この方は生きておられる救い主と信じる人は、だれでも死から勝利することができるのです。
人は、この世に生を受けた時から、一日ごとに死に近づいて行きます。
死は恐ろしいもの、死に対しては無力だと思います。
しかし、イエス・キリストと、その御言葉は永遠の希望を与えてくださいます。
キリストは、死と罪に勝利されたからです。「人間にはただ一度死ぬことと、その後に裁きを受けることが定まっている」(ヘブライ9:27)とあります。
だからこそ、キリストがその救いの為に来られたことを、知らなければなりません。
復活の主を信じる者は、同じ復活の命に生かされています。永遠の命を受ける事が出来ました。
主イエスは、「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。」(ヨハネ11:25)と言われたのです。
人は、罪と死について、考えたくない心があります。しかし、これは人にとっての最大の問題なのです。
人が死について恐れを持つのは、どこへいくのか分からないことと、滅びる事への恐れです。
生まれながらの体と魂は朽ちる存在です。しかし、朽ちるべきものが朽ちないものを着、死ぬべきものが死なないものを必ず着ることができるのです。
イエス・キリストの命を着ることができるからです。復活の命をまとうことができるのです。
死が勝利宣言しているように思えても、それは違います。
「死は勝利にのみ込まれた。死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか・・・わたしたちの主イエス・キリストによってわたしたちに勝利を賜る神に、感謝しよう。」(Tコリント15:54−57)
イエス・キリストが再び来られる時、わたしたちの体は栄光の体に変えられます。栄光の体とは、決して疲れることもなく、病にも侵されない新しい体です。
この素晴らしい希望を与えるために、主イエスはこの世に来られて、十字架による救いを成し遂げてくださいました。
主イエスが復活されたのは、日曜日の朝でした。主イエスを信じる者たちは、復活を記念して、日曜日に集まり、礼拝をささげるようになりました。
主イエスを信じて永遠の命を与えられた者は、主の復活の証人です。
日曜ごとに礼拝をささげるのは、主が復活されたことの証しなのです。
主イエスによって罪を赦された者は「義」とされました。神の前に正しい者、罪の許しをいただいた者です。
ローマの信徒への手紙4章24,25節には、「わたしたちの主イエスを死者の中から復活させた方を信じれば、わたしたちも義と認められます。イエスは、わたしたちの罪のために死に渡され、わたしたちが義とされるために復活させられたのです。」とあります。
主イエスの復活という事実を受け入れ、信じた者の幸いを感謝します。
復活の主をほめたたえます。
この救いの喜び、義とされた者の喜びは、口を閉ざしていることができません。
復活の主こそ、唯一の救い主であることを、私達は伝えていきたいと思います。私達が主イエスを語るなら、聖霊は働かれて人は救われます。
主イエスに従った婦人たちは、恐れおののいて口を開く事が出来ませんでした。しかし、やがて復活の証人として用いられたのです。
初代教会の信者たちは、「まことに主はよみがえりたまえり」と、互いに挨拶をかわしました。
挨拶にも主イエスの復活の証がなされていたのです。
主イエスは今生きておられる神であることを、ますます崇めましょう。

今週のみことば
イエスは言われた。
「わたしは復活であり、命である。
 わたしを信じる者は、死んでも生きる。」
 ヨハネによる福音書11章25節


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