阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2026年4月12日
第2聖日礼拝
「恵みによる救い」
詩編90編7-12節

 先週の日曜日には、幸いなイースター礼拝をささげることが出来ました。主イエスの復活をお祝いできるのは、本当に幸いなことです。
人はこの世に生を受け、やがて世を去ります。これは決まりきったことですが、若い時には、自分もやがて世を去る時が来るということは、考えにくいのではないかと思います。
毎日生きることに全力を注ぎ、明日を信じているからです。
詩編は、信仰を持つ者の賛美と祈りが記されています。90編はモーセの祈りの詩として知られています。
作者であるモーセは、人の命ははかない事を知っていました。
「あなたは人を塵に返し、『人の子よ、帰れ』と仰せになります。」(詩篇90:3)と、記しました。
人は神によって創造されました。神は、人を塵から造られ、その鼻に命の息を吹き入れられました。人はこのように神の命の息によって生きる者となったのです。
人が生まれるのも、この世を去るのも神の御手にあることを知る事が出来ます。
やがて、「人の子よ、帰れ」という御声を聞くときがあるのです。
私達は、明日を信じて生きるのですが、本当に自分に明日はあるのかどうかは分からないのです。
モーセは、いのちの主権者は神であることを知っていました。命は神のものだということです。
人は、自分の物は自分の物。自分が好きなようにしてよいと考えます。この考え方は根本的に違うのです。
自分の命の長ささえ、自分には分からないことを覚える時に、神の前に自分を低くする事が出来ます。
命についての権限をお持ちの方は、天地創造の神であることを覚えましょう。
「人生の年月は七十年ほどのものです。健やかな人が八十年を数えても 得るところは労苦と災いにすぎません。瞬く間に時は過ぎ、わたしたちは飛び去ります。」(90:10)
この詩が記されたころの人は、七十歳、健康な人は八十歳まで生きたようです。現在と同じくらい長寿です。
しかし、その人生は労苦と災いであったとあります。本当に苦労の多い人生だったのでしょう。
10節の御言葉の前後には、「あなたの怒り」、「あなたの憤り」、「御怒り」といった言葉が使われています。
ここで言われている「神の怒り」とは、神が感情的に怒るのではなく、「神の義」、神は正しいお方であることを意味しています。
どのような立派な働きをしていても、この世で功績を残しても、人がほめたたえるような人でも、神の前には誇ることのできない、罪人であることをモーセは知っていました。
自分の罪深さ、いのちのはかなさを知る人は、「生涯の日を正しく数えるように教えてください。知恵ある心を得ることができますように」
(90:12)と祈ることができるのです。
限られた人生を人はどのように歩むのでしょうか。
詩編119編は、神の言葉を愛し、その御言葉に従う事こそ喜びであり、また、義の道であることを教えています。
ひたすら神とその御言葉を求めて歩もうとする人の、信仰がうたわれています。
「あなたの御言葉は、わたしの道の光 わたしの歩みを照らす灯。」
(詩篇119:105)。
クリスチャンなら、だれでも知っている有名な聖句です。
神の言葉を慕い求め、神の言葉によって歩む者の幸いが約束されています。
救い主である主イエスが十字架に架けられる直前には、弟子たちと過ぎ越しの食事をなさいました。
主イエスはその席で、大切な数々の事を教えてくださいました。
「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」(ヨハネ13:34―35)。
弟子たちが互いに愛し合うなら、世は彼らが主イエスの弟子であることを知る事が出来ると、教えておられるのです。私達も、愛が表されることの大切さを覚えるのです。
弟子たちは、主イエスが三度も十字架と復活を予告されていても、悟ることができませんでした。しかし弟子たちには、主イエスがどこかへ行ってしまわれるのではないかという不安がありました。
ですからペトロは、「主よ、どこへ行かれるのですか」(ヨハネ13:36)と、お聞きしています。
主イエスは、あなたがたのために場所を用意しに行くと教えられました。
そして、用意ができたら戻って来てあなたがたを迎えると、約束なさいました。父のもとには住まいがたくさんあるのです。
「わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。」(ヨハネ14:3)。
地上での働きや功績によるのではなく、ただ主イエスを信じて従うなら、主イエスのもとに招かれることが約束されています。
弟子たちは、主イエスの御言葉を理解していませんでした。
主イエスはさらに、「わたしがどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている」(ヨハネ14:4)と言われたので、ますます分からなくなってしまいました。
それでトマスが、「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか」
(ヨハネ14:5)と、お聞きしたのです。
弟子たちは、主イエスが単にどこかよそへ行かれると思っていましたが、主イエスは救いの道、永遠の道、神の国への道を示されました。
「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」(ヨハネ14:6)
主イエスは、今、わたしたちにこのようにご自身を表していてくださいます。
わたしたちは生まれながらに「怒りの子」です。
「生まれながら神の怒りを受けるべき者でした。」(エフェソ2:3)とあるように、生まれながらに罪を持つ者であり、神の義とはまったく隔てられていた存在でした。
詩編90編の10節前後の御言葉が当てはまる者でした。神は隠れた罪さえ知っておられるのです。
しかし、道である主イエスは、わたしたちの罪をすべて背負われて十字架で命を捨てて下さいました。三日目に復活された主は、今生きておられる救い主です。
90編1節では、「主よ、あなたは代々わたしたちの宿るところ。山々が生まれる前から 大地が、人の世が、生みだされる前から 世々とこしえに、あなたは神」(90:1)と、信仰が告白されています。
口語訳聖書では、「主よ、あなたは世々われらのすみかでいらせられる」と訳されています。どちらにしても、神こそ私たちの住まいであることがうたわれているのです。わたしたちの本当の住まいは神の許であり、神の国であることを深く覚えて感謝します。
主イエスという救い主を信じて、父のもとに宿る時が来ることは、永遠の希望であり、喜びです。
わたしたちには、それぞれ生涯の日がどれほどあるのかは分かりません。しかし、主イエスによって罪は赦され、神の怒りではなく、憐みを受けた者となる事が出来ました。生涯の日を正しく数えながら、感謝をもって、主の栄光の為に生かされていくことを覚えながら、日々を歩み続けたいと思います。
「しかし、憐れみ豊かな神は、わたしたちをこの上なく愛してくださり、その愛によって、罪のために死んでいたわたしたちをキリストと共に生かし、あなたがたの救われたのは恵みによるのです。キリスト・イエスによって共に復活させ、共に天の王座に着かせてくださいました」(エフェソ2:4―6)。救いにあずかれた恵みを感謝します。

今週のみことば
行ってあなたがたのために場所を用意したら、
戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。
こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。
ヨハネによる福音書14章3節


 ページのトップへ
  
2026年の礼拝メッセージ
  
他の年の礼拝メッセージへ


トップページへ