ペンテコステ信仰と聖書と啓示
廣瀬利男
| ここでもローマカトリックや東方正教会の状況の方が見込みがあるとさえ言っているのである。これが21世紀初頭のキリスト教界の現状であるとすれば、20世紀初頭にペンテコステ運動が初代教会への回帰、とりもなおさず聖書の原点への回帰を目指して神学思潮を否定したことが思想史的に充分理解する必要があるといえる。ペンテコステ派の「否定の神学」は無神学ではなく神学の本質を根本から問い直すことにあったのである。 このような現実の世界の神学思潮から,今日の日本でのペンテコステ派の現実は,二つの視点で深刻な状況になるといえる。ペンテコステ派の聖書信仰の検証を無視したような主観的主張で預言の乱用,使徒的権威の主張による本来のキリストの教会観からの逸脱。 一方では,依然として神学的・知的コンプレックスからくる世界の神学潮流に逆行するような歴史的批評聖書学を取り入れ,その思考形態,学的性質を理解しないで迎合する傾向にある。日本におけるペンテコステ派の主流をなしてきた日本アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団立の中央聖書神学校の「論集」(‘03年4月刊)には「われわれ日本アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団でも“福音書批評学”はもはやタブーではなく,取り組むべき課題として位置づけられているものと思われる。」 これに続いてITソフトの“聖書の達人”の福音主義(保守)の聖書批評学のスタンスを知る情報を提示し、“おわり”の項で「少なくとも現在の、聖書学・神学全体の基礎情報を教えておくことが肝要と思われる。昨今、聖書学においては特に著論・概論的な学問の重要性が叫ばれているのもこの故であろう。」Fといわれている。 実際は、福音書の著者問題や終末観における再臨の有無が神学校の教師からの情報としてフィールドで牧会的に当惑を与え、混乱するという風評が起こるのはどうしてなのだろうか。それは教師集団の中での神学的自己理解と学的前提としての教義学でのプロレゴメでの学問論や啓示論が共通して基本的に整理確立されていないのではないかと言う危惧である。情報として“聖書批評学”を教えることは混乱を招くだけである。 実際、今日宣教牧会に携わる教職にとっては本来的に聖書批評学を理解することは必然性を持っている。ここでは情報源の神学的立場の理解を指摘しているが、自分自身の立場を明確にしないと森にはいって迷い込み、出口がないまま自己存在を自失することになろう。 日本アッセンブリーでは正教師試験のテキストでもずいぶん以前から保守的福音主義陣営でない学者の著書を利用している。決して、聖書批評学や新正統主義などの学的禁書環境はないといえるであろう。中央聖書神学校は保守的福音主義聖書理解を基本に教育がされてきているが,現実には学問として決して禁止しているとは思われない。 現に,わたしは45年前に中央聖書学校に在学していたが,教会史の教師は中央聖書学校出身(神召教会牧師)であったが立教大学神学部大学院で当時,日本を代表するバルテアン菅円吉に師事されていた。神学の指導教師の中心であった弓山喜代馬師は保守的な聖書観と聖霊信仰に立ちながら,生徒が広く学ぶ事をよしとされていた。 しかし,保守的福音主義以外の書物を読むことについては快く思っておられなかったことも事実である。もし,タブーであるとすれば破門,退学の処分がなされたといえる。筆者は,中央聖書神学校卒業後,関西学院神学部に学んだ。1960年代は日本のキリスト教会はブルトマンの様式史批評の全盛の時代であった。わたしは入学早々,衝撃的なことに直面する。テキストにブルトマン著の「原始キリスト教」を読む事になった。イエスの宣教からはじめられたその開いたページの冒頭に「イエスは決して『キリスト』ではなく,むしろ一人のユダヤ人であった。」Gこれを読んだとき,止めどもなく涙が出てくるのである。「聖霊によらなければ,だれも『イエスは主である』と言うことはできない。」(コリントU12:3)という言葉が浮かび上がり,授業中,涙が止まらなかった。ペンテコステ聖霊経験は生けるキリストを今そこで「インマヌエルなる主」としていてくださるあの体験であり,それは魂の確信となり,聖霊にとらえられている体験である言えるものであった。 「結局,死者の甦りとは,旧約聖書に縁のない思想であるが,ユダヤ教が明らかにイランの宗教から継承した観念であり,イエスの時代に既に通俗化し,パリサイ派によって唱導されたが,一方,サドカイ派はこれを拒否していた。」 F 中央聖書神学校“論集”2号p114.強調傍線原文通り G 「原始キリスト教」R.ブルトマン著米倉訳、新教出版p89 前ページ1/10 2/10 次ページ3/10へ |
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