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アッセンブリー教会の歴史の流れ
テーマ「信仰と宣教」

ーペンテコステ運動史を巡ってー


廣瀬利男

 ペンテコステ運動の発祥についてはいろいろな意見があるが、18世紀に起こったウエスレーのメソジスト運動に思想的ルーツにあることは明らかである。アメリカにおけるメソジスト運動が「キリスト者の完全」の教理を先鋭化していく中できよめのバプテスマ、即ち、火と聖霊によるバプテスマが論じられ受霊の経験が異言現象を伴うことからその結果と意義が聖書の経験と照合しながら教理が確認されるにいたった。

20世紀の初頭、カンサスのトペカでのペンテコステ運動の先駆、R・パーハムや、その後のロスアンゼルスのペンテコステ・リバイバルの指導者L・セイモアーもホーリネス運動の新生のバプテスマ、きよめのバプテスマ(火のバプテスマ)、そして異言の伴う聖霊のバプテスマという経験をペンテコステ経験として理解していた。

メソジスト運動からホーリネス運動の生成は「キリスト者の完全」の神学の“救い”、即ち、“きよめ”の確証の漸進性と完結性の理解の先鋭化にあった。本来、ウエスレーの思想の中での“確証経験”にはどこまでも“漸進性”の理解が認識されていることと乖離(かいり)していくことから運動は分離することになる。ホーリネス運動の更なる先鋭化は主観的な“きよめ”の確証から、客観的な異言現象としての聖霊のバプテスマの理解が完結性を意味してペンテコステ運動の生成となる。

ロスアンゼルスのリバイバルの段階では、ホーリネス運動の思想的枠の中でペンテコステ運動は拡大し、インター・デノミネーシヨン的社会現象として欧米キリスト教社会を初め、当時の第三世界の被宣教地にまで波及する。当然、「キリスト者の完全」を罪性根絶説に理解することに同意し得ない教派が明らかとなり、ピューリタニズムの流れにあるシカゴの第一バプテスト教会(ノースアベニューミッション)の牧師W・ダーハムの「カルバリーの完成されたわざ」で主張された救済における義認と聖化の同義牲と聖化の漸進性がペンテコステ運動の主流となる人材が輩出する。

一方、保守的長老派の牧師A・B・シンプソンの主宰するアライアンス・ミッションでのペンテコステ運動の波及は現象的には大きな影響を受ける。しかし、団体としては曖昧に拒絶することになるが、相当数の教職はペンテコステにとどまりペンテコステ運動の主流となるアッセンブリー教団の初期における「基本的真理に関する宣言」信仰宣言綱要の起草やスプリングフイールドにおける教職養成の基礎としての聖書学校の創設にかかわっている。(オハイオ州クリーブランド、クリスチャン・アンド・ミショナリー・アライアンス教会の牧師、D・W・カー、CBCの初代校長。第二代議長W・ウエルチ)「基本的真理に関する宣言」は今日においても教理的合意の基礎としており、当初の義認と聖化、ワンネスに対する三位一体の教理の信仰告白をなすものであり、保守的福音主義神学の信条を宣言しているものとしてアライアンス的思想の潮流にある。

アッセンブリー教団がアメリカで形成される当初においては「聖書を信仰の唯一の基本信条」にすることで結集し、ホーリネスの思想的課題などを持ちながら包括的に出発した。すでに、「イエスのみ名」にこだわる事件から洗礼の式文にからむ三位一体論の基本教理の問題、ホーリネス運動の義認と聖化理解の教義の問題から基礎教理をめぐって議論され、宗教改革での神学的基礎としての「聖書のみ」「信仰のみ」「万人祭司」を基本とし、キリスト教の正統的根本的な神観、三位一体、聖化の漸進性と終末における栄化の教理を宣言する。

1918年第6回総会ではイリノイ州のザイオンの牧師F・F・ボスワーズによってペンテコステ運動の根幹的独自性である「異言」が聖霊のバプテスマの最初の統一的証拠とする捉え方、即ち、聖霊のバプテスマの証拠と霊の賜物としての異言の区別に対し疑義をとなえる課題が提議される。また、異言現象の人為的牧会配慮への疑念、受霊後の現実的生活変化への疑義などから、異言現象を否定しないが「御霊の賜物であれば、いかなるものでも聖霊のバプテスマを意味するものになる。」と主張した。これは当時、ペンテコステ・リバイバルの流れにあって最終的にアライアンス・ミッションが採択してペンテコステ運動から一線を引く教説であった。

総会ではこのテーゼに対する反論としてD・W・カーはかってアライアンスの総会で論じられた課題に改めてペンテコステ運動の独自性の弁証をし「聖霊のバプテスマの証拠は異なる言葉を語るという、肉体上のしるしを伴うという証言である」と主張、これに反するときは「基本的真理に関する宣言」を不合意とみなすと論じた。F・F・ボスワーズは総会後、アライアンスの群れに合流することになる。

ともあれ、アッセンブリーは草創期4年にして基礎的信仰教理を形成し、ペンテコステ主義はリバイバル運動であって諸教派の一つの群れというのではないという自覚にありながら教団としての組織を形成することになる。このような聖書理解からホーリネス運動の思想を基本にするホーリネス・ペンテコステ派が生成し、三位一体の基礎教理の理解から「ワンネス」、そして聖霊のバプテスマと義認の同一視としての異言現象理解などによってユニテリアン・ペンテコステ派が生成することになる。さらに、ユニテリアン・ペンテコステ派は異言の“しるし”を受霊と救済の証明と同義に信じることになる。

ペンテコステ運動は20世紀の初頭に始まり、1920年までにはバプテスト系ペンテコステ派、ユニテリアン系ペンテコステ派、ホーリネス系ペンテコステ派の三つの流れとなる。これらお総称して今日ではクラシック・ペンテコステといわれ、アッセンブリーズ・オブ・ゴッドはバプテスト系のペンテコストである。

1950年代になってオーラル・ロバーツの超教派による神癒クルセード宣教の影響から聖霊信仰を強調する純福音実業家親交会(FGBIF)が結成され、一方では、P・デプロッシーによるWCC(世界キリスト教協議会)での交流、聖公会のD・ベネットによる聖霊運動などがメイジャーデノミネイションを初め、超教派の伝統の中でスピリチュアルリニューアル運度として拡大する現象が起こる。さらに、カトリック教会のデューク大での聖霊運動となり、これらの流れをカリスマ運動と呼ぶようになる。

1980年ごろからフラー・セミナリーのP・ワグナーによる第三の波の提唱から、異言の伴う聖霊のバプテスマに拘らない霊の賜物を強調する“第三の波”力の伝道が最も強固に聖霊経験(異言現象)を批判してきた保守的福音派を中心にカリスマ運動が拡大する。

ペンテコステ運動は原始教会への復帰と再現を基本に現在への信仰を問い、キリストの教会を再生することにある。それはとりもなおさず教会史の中で教会が刷新する根本的課題であった。ルターにおいても、ウエスレーにおいても教会刷新は初代の教会への回帰、聖書に帰ることであった。

しかし、ルターは中世の伝統や社会体制の残滓を引きずり、ウエスレーはアングリカンの伝統と思想的継承の中で聖書の回帰を試みている。ペンテコステ運動は社会現象的にはホーリネス・キャンプ運動の延長線上から生起しているが、19世紀後半から20世紀初頭の神学思想潮流は啓蒙思想による理性を中心とする科学的思想と伝統的なキリスト教思想、科学と信仰、理性と啓示の離反と調和、蒙を啓することから理性による実証のみが実在とするようになっていた。

信仰は道徳の目的への道具と化し、霊性の否定、超自然的神は人間の理性に転置される。神秘的な経験と敬虔は理性の結果として理解されキリストは道徳感化の対象にしか過ぎなくなる。伝統的な保守的キリスト教の教会は自由主義神学への批判だけでなく、一般教育さえも反キリスト教的であり、反道徳的として否定するようになっていた。

18世紀から19世紀のリバイバルリズムは反神学的聖書回帰が底流となって霊性の無力化、信仰の虚脱化から一切の神学と伝統の否定となり、教会職制の否定、礼拝の歴史的伝統と形式の否定、無神学、無歴史的に聖書回帰への運動として発展する。

ペンテコステ運動は教職制度を抜きにした信徒伝道運動の形態をとる。聖霊のバプテスマを受けることが「主の証人」になることであり、宣教師になることでもある。“聖書が唯一の生活と信仰の基準”であり、聖霊経験が実質的な認証であって宣教の能力の賦与である。

このような経緯がその後の組織形成の中で受け継がれることになる。実際に、米国では教職の社会的認知は第二次世界大戦での従軍牧師の認証問題から伝統のレベルでの牧師養成機関の設置が1960年代でようやく実現する。教理的には「信仰の真理に関する宣言が」制定されてよりその独自性は受け継がれている。

日本におけるペンテコステ運動は自然発生的、無組織的に拡大する米国からの宣教師の来日で始まり、その原初の来日を特定することは依然、不確定である。それは、それぞれの来日宣教師が一つの群れとしての形成が戦前において確定することと、継続が難しいことからも不明なことが多い。

米国アッセンブリーが形成される一年前、1913年にC・F.・ジュルゲンセン一家が来日する。1906年ごろからナイアックのアライアンス宣教師訓練学校でのリバイバルに始まる異言現象の伴う聖霊のバプテスマがアライアンスの群れの諸教会に拡大した。

オハイオ州クリーブランドには2つのアライアンス・ミッションの教会があり総会が聖霊のバプテスマの唯一のしるしとして認めなくなり、一つの教会は残り、D・W・カーの牧会する教会はアライアンスを離れてペンテコスト派になった経緯がある。

カーはアッセンブリーの創設と信仰宣言の起草やペンテコステの教理の独自性の確立、教職養成校としてのC・B・C(中央聖書学校・スプリングフイールド)の設立の責任を負うことになる。その教会からC・F・ジュルゲンセンが来日することになる。

伝統的な保守的長老派の流れで「四重の福音」の実践的な教理に霊的経験を強調するA・B・シンプソンの教えに、ペンテコステの真理を経験し確信して宣教の業にジュルゲンセンは従事した。このときを前後して、日本では、中田重治がムーデイ聖書学院の留学から帰国してホーリネス運動を日本に伝える。ホーリネス運動は日本では大正、昭和の初期に至ってホーリネス・リバイバル現象が起こる。

ペンテコステ運動は日本人で弓山喜代馬、菊地隆之助、村井純などが導かれるがワンネスの教理問題などの葛藤で離散融合を繰り返して戦後を迎える。
第二次世界大戦後は、荒廃の中で基本的人権を認める時代を迎え、宗教思想弾圧から解放され、米国の占領政策の一環としてキリスト教宣教師が多く渡来する。

ペンテコステ運動は本格的な活動が多くの米国のペンテコステ教派を初め、カナダ、英国の多様な宣教師団、また、北欧のペンテコステ運動の宣教師団が中国宣教から追放されて来日する。戦前の苦難の中で培われた日本人のペンテコステ指導的な人材は戦後に大きく宣教と教会形成の花を咲かせることになる。

戦後の日本における宣教の復興は英国の宣教師で戦中米国のノウスウエスト・バイブル・カレッジ(シアトル)で教授職にあったJ・クレメントによる再来日が東京でのC・B・C(現中央聖書神学校)の発展的設立に大きく預かることになる。当初、アッセンブリーは徹底した保守的聖書信仰に立ち、聖霊の自由な働きを基本とし、聖霊の賜物を教会形成の基礎として宣教を始めた。

特に、キリスト教の伝統のない日本のペンテコステ運動の中心的なアッセンブリーでは弓山喜代馬の毅然とした崇高な人格と単純にして、明快、論理性に裏打ちされた聖書信仰と聖霊信仰の実践的指導は教団組織形成に大きな影響を与えた。

また、弓山の弟子でもある菊地は宣教での実績で多くの献身者を輩出する。一方、ホーリネス運動系の団体から川崎、力丸、日本伝道隊の岸部、横山、安斉などの個性にあふれた牧会伝道者が組織形成の強化の礎になってきた。日本での戦後のキリスト教会の形成発展については保守的福音派では相対的には確実に発展しているといえる。

日本アセンブリーはペンテコステ運動として国際的な視野で見る限り、社会現象としてのリバイバル現象とはいえない経過であるが、日本のカリスマ・ペンテコステ派で突出している発展組織であるといえる。
 米国アッセンブリーは生成当初においって正規の教職養成の教育を受けた人材が指導者に導かれていた。そのことが様々な神学的問題、教理的問題を形成するのに貢献している。本来、ペンテコステ信仰は人間の経験を中心にした主観的な聖霊信仰ではなく、あくまでも聖書信仰を基本にした聖霊信仰である。個人の聖霊経験は絶えず聖書による検証によってその経験の真偽が問われなければならない。

組織が形成される動機においても本来的に反組織的傾向をもちながら“聖書を神の言葉であって、信仰と生活の唯一の基準とする”ことに一致点を自覚してはじめられた。

アメリカにおける宗教社会現象はどのような宗教現象もカルトとして社会的抑圧を受け既成のメイジャー・デノミネイションによる認知でセクトとなり、社会的に評価を受けてデノミネイションとなる形態をとる。アメリカでは1928年シカゴで開催された「根本主義大会」で近代ペンテコステ主義に無条件で反対するという表明をし、一方、英国のケズイック運動では著名な聖書学者や説教者がペンテコステを批判し“サタンの作為”として攻撃を受けるようなことがあった。

1943年に自由主義神学に対抗する全米福音主義連盟に招かれて加盟し、その採択の声明書に署名し、1960年には米国アッセンブリーの代表者T・ジーマーマンが議長に就任することになる。カルト的、セクト的な偏見と差別から名実共に聖書的で、福音的にして健全な、生けるキリストを宣証する教会として社会的勢力を形成するようになる。

21世紀にはキリスト教会の世俗的相対化の進む米国社会の危機感をとどめる動因として国家の趨勢に健全な影響を与えていると認知されるようになる。
しかし、日本では米国におけるホーリネス運動との教理的見解の乖離、癒しの伝道や異言現象の無理解からの偏見や中傷がそのまま移入されて、特に福音派の中で顕著に陰湿な中傷が続くことになる。

日本における福音は諸教会の協力連絡機関である日本福音連盟の創設のチャーターメンバーとして参加しながら、正式参加は1985年の教団総会において加入決議される。現実には、福音連盟の内規であるカリスマ条項が弊害となっていたことは否めない。

カリスマ・ペンテコステ派の加入への牧会的危惧がその趣旨である。反面、ペンテコステ派の諸教会間では日本アッセンブリーはペンテコステではなくなったとさえ言われる傾向になっている。諸外国ではペンテコステ派は福音連盟での位置は確立しているのに、依然、日本ではその状態が続いた。近年、ようやくカリスマ条項が再考されるようになっている。

しかし、福音派の偏見や中傷も日本の宣教における社会環境には実際において直接的な障害ではないといえるほどのものであろう。

ともあれ、日本におけるペンテコステ宣教はC・F・ジュルゲンセンに始まる。彼は、神学教育を受けた教職者でなく、雑貨商で成功した一ドイツ移民であった。受霊するに及んで聖霊の導きのもとで一切の財産を整理し未知の異国、日本へ妻と2人の娘を伴い宣教に旅立つのである。

やがて、1922年、来日約10年にして一時帰国する。その間、米国に残っていた子息ジョン・ジュルゲンセンが宣教の召命を受けて来日し、弓山と出会い、ジョンの薫陶を受ける。弓山にとっては岡山医専中退以外の学歴はない。また戦後、アッセンブリーに合流した川崎、力丸もホーリネス・リバイバル時代の聖書教育環境は聖書一巻、他の書物は焚書すべきという時代であった。

同時代の福音派は多かれ少なかれホーリネス・リバイバルの影響下にあった。戦後、弓山は専任聖書学校教師として後進の指導に当たる。戦後の指導的年配の教職はほとんど独学か、いわゆる聖書を自国語で学ぶムーデー聖書学院の傾向の教育しか受けていない状態であり、単純率直に聖書を神の言葉と信じ、敬虔にして祈り深く、聖霊に満たされた伝道者タイプであった。

当初は、ペンテコステ運動がようやく半世紀になり独自の神学的著作は日本語ではなくM・パールマンの“Know The Doctrines of The Bible” やR.Riggsの“The Spirit Himself”を授業で訳しながら解説するという内容であった。しかし、弓山はすでに英語とドイツ語に通じ、多くの神学書に通じていた。福音主義系の本を中心に学生に神学書を読むことを勧めた。

しかし、万巻の書に通じても聖書に帰り、聖書にもと付かねばならないという基本的姿勢を貫き、基本的教理の真髄を整理して語り、全国、地方の大聖会でも教理を教えることに打ち込んだ。当時の自由主義神学や新正統主義的な聖書観には厳しい態度で臨んでいた。

日本アッセンブリーでは伝統的にアメリカアッセンブリーの歴史的経緯によって形成された「基本的真理に関する宣言」を踏襲し、ペンテコステ運動の経緯でのきよめの漸進性や三位一体の問題などの教理的混乱が日本でも起こったが、一貫して弓山は指導者として正統的な福音主義にもと付くペンテコステ主義に徹してきた。1960年、教職の継続教育と研鑽のためにの研究誌として「講壇」が発刊された。

約半世紀の「講壇」誌の継続の中でアッセンブリーの教職の思想的主張や神学主張の問題性の足跡が刻まれてきた。その中には、すでに議論されてきた異言現象の理解の問題、また、救済と異言の問題、カリスマ信仰と啓示の問題が浮き彫りにされてきている。

一方では、福音派の教職は新福音主義の聖書理解にあるといわれる時代的傾向の中で高等批評学の学的基礎理解を抜きにして迎合し新たな疑問を呈する傾向も見られるようになっている。改めて、信仰の基本的原則を省みて将来の宣教への礎になればと祈る次第である。

ともあれ、「講壇」誌を振り返り教理的な基本と実践神学での課題を項目的にすでに掲載された足跡をたどる意味で日本アッセンブリーの「信仰と宣教」という課題において戦後50年の信仰の歩みの一端として、多方面からの見解を集約させていただいて編纂している。

今や、近代的な自由主義神学による聖書の解体と権威の喪失、世俗相対化の社会潮流の中でキリスト教の解体が叫ばれている。オクスフオード大学の歴史神学教授のA・Eマクグラスは「プロテスタントの主流派は存続するのだろうか。」と問うている。そして「主流の教派に未来があるとすれば、それは小さくなってゆく自分たちの教派の内側からの刷新運動によってである。

そのような刷新運動を突き動かす力は、通常、ことに教派的綱領や方法ではなく、福音的か、カリスマ的な運動である。その点を考えると、未来のキリスト教を決定する要素としては、主流の教派よりもむしろ、これらの運動を考えたほうがよさそうである。あるプロテスタントの教会が21世紀に生き残れるかどうかを決定するのは、それが聖公会(アングリカン)であるか、メソジストであるか、長老派教会であるかではなく、それが福音派かカリスマ派であるかである」。(「キリスト教の将来」p145)といっている。

伝統的な教派の課題は聖書を相対化する神学思潮に根本的な問題がある。一方、ペンテコステ運動が生成して1世紀を過ぎた。多くの宗教運動は教会史的経緯では1世紀を過ぎるころに閉塞し、組織が強大になると形骸化が進む。

しかし、ペンテコステ運動は絶えず、日常的に聖書の原点に返り、原始教会の聖霊の躍動感に満ちた信仰に立つ限り、いかなる社会形態の変化や文化の中でもペンテコステ信仰は宣教の力を発揮しうるであろう。

ペンテコステ運動が伝統と神学を批判し、否定して聖書の原点に返って生成した。しかし、無歴史的、無神学的な傾向から、聖書や教理が歴史的変遷の中で形成されてきた経緯を踏まえ、無神学の神学、即ち、神の言葉、聖書が聖霊の主体において時代を超えて生けるキリストを証しする神学となり、どのような時代にも未来を拓く神学として使命を果たすことになろう。

その証こそは聖霊のダイナミックな業によってキリストの教会を立て上げることにほかならない。


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