ペンテコステ神学研究会 2004年8月9日発題

テーマ「異言の本質的意義」


廣瀬利男

 序)ペンテコステ派の独自性としての「異言現象」について
  “もし、ぺンテコスタリズムから異言を語ることが取り除かれたならば、おそらく反対意見の90%は無くなってしまうであろうし、ペンテコステはおそらくプロテスタント教界において最も人気の高い宗教運動になり得ることであろう」。
アッセンブリー・オブ・ゴッドの歴史家カール・ブルムバック1947年の指摘。(Faupel、Glossalalia As Forein Language,1996.p95 .SINGS No 6, p160)

1.ペンテコステ運動の「異言現象」の位置付け

   ペンテコステ運動「異言現象」の理解の変遷
   運動前史―ペンテコステ運動の発端の理解―カリスマ運動―第3の波カリスマ
   近代ペンテコステ運動の発端
   クリソストム(354−407)までには異言現象消えているといわれていると言われている。

a、1830年 イギリス、アーヴング主義運動。聖霊の傾注を求める。ヨエル2:23を根拠にする。異言現象は原始教会と同じ、異言は聖霊のバプテスマの証拠。霊の賜物の前提、カリスマは恒久的になものとする。

b、ホーリネス運動、1980年ごろよりB・H・アーウインによる新生―聖化―聖霊と火のバプテスマの強調による。‘86ノース・カロライナ、チェロウキ―、マーフィーで100人の人が異言の伴う聖霊を受ける。 C・コーンこのときをペンテコステ運動の発端とする。

c、C・F・パーハムよるトペカの聖書学校の受霊現象をペンテコステ運動の発端とする。
アッセンブリ―・オブ・ゴッド一般的見解。

d、1906年ロス・リバイバル、を発端とする。D・ジーがいる。

e、1907年 アライアンス(1887年A・Bシンプゾン「四重の福音」)ナイアック宣教師訓練学校で100人が受霊する。インドのリバイバル。ムクテイでパンデイタ・ラマダイ婦人、孤児院2000人、祈り会で100人が受霊。1912年チベットw・シンプソン(アライアンス)受霊に始まる。50教会がペンテコステのなる。

*トペカ・リバイバルは「異言」を聖霊のバプテスマの最初のしるしと位置付けることによってペンテコステ運動の発端とする。 世界へ拡大する契機となる。

2.最近の「異言現象」研究の動向

「異言」に関する研究 トペカでのアグネス・オズマンの受霊のしるしの「異言」は中国語と言われている(ニコルス 「The Pentecostals」)フロジャムはボヘミヤ語で語ったと言う(The Sings Following)そして、佐々木師は始め中国語であったが後に東欧語で話すと言っている。初期のトペカの「異言現象」の基本的な動因は「海外宣教」のための言語の語りの奇跡にあったとする。そして、「異言」は使徒2章のグロソラリアー「明瞭な言語」にこだわる。

アズサにおけるリバイバルでも「初期のペンテコステ・リバイバルが持っていた情緒的、感情的な雰囲気において、そこではGlossolaliaが既知の外国語だと考えられていたり、国民性人種、経済的な立場に因らないで、すべての人が受け入れられていたが、孤独と疎外感を抱えていた移民達が自分の母国語や、ペンテコステの人々の英語で宣べ伝えていたメッセージと一致した内容を『聞いた』と想像したとしても、難しい話ではない。

そのメッセージを受け入れて、これらの人々はその信仰共同体としっかりした交わりに加えられた。彼らは自分達の新しい家庭を見つけたのである」。(Faupel,Glossalalia As Foreign Language,1996p106)また、フロジャムがアズサの集会にでた印象の言葉として「メキシコ人、あるいはドイツ人が英語を話すことが出来なくても、その人が立ち上がって自分の母国語で語り、すっかりくつろいでいる。と言うのも、聖霊がその表情を通して通訳し、人々が『アーメン』と応答しているからである。」(p105)ここでは音の共鳴であると解釈されている。(藤林イザヤ、Sings No6)

このような事から「異言」は語る人の言語より、聴く人がそれを「ある言語」とわかる言語と聞く現象であると言う解釈も出来ている。

初期おいては実際に「異言」は外国語であると信じて宣教師として出て行った人達もあり、事実、言語としては通じることなく、財政的にも行き詰まり悲劇的に終った者もいたと言われている。特に、アメリカでは聖霊のバプテスマのしるしとしての「異言」が「既知の言語」であると理解しようとする傾向があると言われる。

一方では「異言」は本来の「言語」であるかどうかを厳密に精査しようとする試みもなされている。(プリンストン神学校など)特に、1960年以降、カリスマ運動が拡大するにつれて厳密な言語学的精査が進んで行われる。当初、ペンテコステ派は軽蔑の目で「異言派」と言われたり、「精神異常者」と言うレッテルで中傷されたりした。

「グロッソラリアは現行の社会文化的規範と両立しない衝動ではあるけれども、意識的にはわからないような形で、あえて日の目を見ようとしている衝動が表に出るのを可能にする。グロッソラリアは規範に背く動因と意識的な規範との妥協の産物である。解消されない緊張の表現である点でノイローゼの症状と似ているとも考えれる。

……しかし、20世紀中葉になって米国のペンテコステ運動が教育程度高い中産階級や体制側の教会を巻込むにいたって、グロッソラリアを病理現象と解釈するのはますます困難になってきた。活発にグロッソラリア活動をしている人々との接触が増すにつれ、こういう人々はなんら心的欠陥の無い人だと言う確信が膨らんでいったのである」。(G・タイセン「パウロの神学の心理的側面」p428)

「異言」が言語であれば意味がある。意味が無ければ全くナンセンスである。「異言現象」は「神話」であって「神学」化しなければならないと言う傾向さえ生まれている。「異言」について懐疑的、批判的に理性の領域で理解しようとする時代的流れであると言える。

しかし、「異言」はペンテコステの主流であるアッセンブリ―では「異言」は霊の言葉であり理解できる「言語」ではないと言う認識であろう。「異言」は語っている人には理解できないから「異言」であってそれを理解出きる「言語」として聞く人の場合もあり、誰にも解らない時もあると言える。

「グロッソラリア行動には事実、心理学的にも、また言語学的、社会学的な面でも退行的な特徴があるのである。言語学的に見ると、グロッソラリアの体験は幼児の言語習得能力の再活性化を前提としている。なにか異常な模倣の天分でもなければ、さまざまのグロッソラリア言語の伝承は説明がつかない。

それに著しい特徴が加わる。つまり、音素の数が減少しているのである。記号と示されるものとの習慣的な結びつきと言う意味での言語記号の統一性もなくなっている。表出、意味、呼称という言語の三つの次元のうちの意味の次元が失われている。

それで、グロッソラリアは幼児の音声段階にまで退行する。ここでは、まだなにも指示されるものがなく、ただ表出と呼びかけただけである。といっても、グロッソラリアが、こもごも言う幼児期の発生を繰り返しているといっているわけでではない。ひとたび言語能力を身につけてしまうと、あとはこの能力を基礎に活動し、その言語能力の枠の中でのみ退行できる。

しかし、グロッソラリアがより原始的な言語形態への復帰であることには、疑いの余地はない」。(G・マイセン「パウロ神学の心理学的側面」p434)

第三の波の時代の1980年頃からフラー神学校のP・ワーグナーやJ・ウインバーによって「力の伝道」が提唱される。これはペンテコステ運動の第3期として位置付けられ、カリスマとしての「異言」を肯定しながら消極的に拒否する。そして、カリスマの賜物、奇蹟や神癒を強調する。

3、「異言現象」を理解する前提

 @人間の認識と行動は解釈による

 キリスト教の歴史は思想史的歴史テーゼとの相克の中で形成が推移してきている。特に近世においてルネッサンスから啓蒙思想を経て実証的科学思想影響に至る教会の本質は「原始教会」に帰る、即ち、聖書の原点に遡源することによって刷新してきた。「教会は古くなることによってのみ新しくなる」。(V・トーフト)原始キリスト教がその時代の歴史に人間の行動と体験に特異な変革を生みだしたといえる。聖書のテキストは歴史の記録である。時は瞬時に過ぎ去り、過去となる。過去は歴史であり確実な事実として再現する事が出きるだろうか。厳密には出来ないといえる。歴史は解釈して再現される。

   A 歴史における人間の体験と行動は解釈によって媒介される。心的なプロセスは内外の世界に人間の与える解釈によって決まる。歴史の出来事はそれ自体の作用でなく解釈によって決まる。また、その解釈は解釈の中で理解されるので人間の理解の根底には自己理解(前提)がある。

   B、人間の行動や体験は歴史に、相対的に影響を受けるが、時は移りそれに対応して解釈されるために個性化されるが決して歴史的な一般概念と分離されえないものであるといえる。

   C、人間の行動や体験は客観化される。それはテキストや伝承可能な形で藝術作品、祭儀、制度などで、後世は世界と自己とがどのような解釈が心的生活を規定していたかを読み取ることが出来る。

   D、人間の体験と行動は一つの全体的な関連性を持つ。理解される全体関連の前理解の光によって理解が行われる。テキストでは部分と全体の間の解釈学的循環で行われる。

   E、人間の行動と体験は内容によって性格付けられる。心的事象の一般的理解だけでは十分に解明出来ない。歴史のコンテキスト(宗教、藝術、学問、政治、経済)からその都度、固有な仕方で形成される。(タイセン「パウロ神学の心理学側面」p21)このような前提理解で聖書のテキストの「異言現象」を解明する道を辿ることが出きるといえる。

 A心理学的解釈の可能性

  「使徒行伝二章が最初の聖霊降臨について伝えているように、キリスト教信仰共同体が『異言』のもとで誕生したことは、歴史的に議論の余地のない現象である。……聖霊降臨的・カリスマ的信仰共同体が今日至るところで大きくなり、新しい教会の国々においてばかりでなく、また古いキリスト教国に広がっていることは疑いにないところである」。(モルトマン「いのちの御霊」p277)

原始教会において「異言現象」が人間と行動に変革をもたらし、社会に大きいイムパクトを与えている。「異言現象」そのものを人間の心的行為、体験として心理学的に解釈して理解することによってよりテキストのコンテキストからその現象の本来的な事柄が明らかになるのではないだろうか。

心理学は本来、人間や動物の行動や心の生理現象を実験的に明らかにする実証科学である。そこでは、心の仮説はアカデミックな迷信に過ぎないとする。精神分析による無意識の概念が確立される。しかし、欲求の抑圧の集積としての無意識を理解する。宗教は欲望の投影として捉える。いずれにせよ、意識を軽視する傾向がある。

一方、ユングの分析心理学では無意識の個人化から歴史、伝統、社会、文化、自然に関係する普遍的(集合的)無意識の理解で人間のアプリオリな領域まで心的構造のあり方の概念を提示する。「異言現象」が人間に体験される現象として、それが極めて人間の根源的な霊的存在の理解を提示し、パウロ神学の人間の霊と聖霊の関係の本質を解明することになるのではないだろうか。

タイセンは聖書釈義の限界とグロッソラリア現象の解明の方策を述べている。「(グロソラリアその他のプネウマ現象を宗教心理学の立場から理解可能にすることに)新約聖書釈義は今日まで答えていない。もしそれが出来たら、宗教心理学的分析にとって、グロッソラリアは報いられるところの多い分析対象ということになろう。

宗教心理学には反対の立場をとる神学者ですら、こと異言となると心理学考察が欠かせないといっているからだ。おそらく、そういう神学者達は心理学的分析は宗教現象の仮面を剥ぐという危険なものだが、グロッソラリアは、仮面を剥ぐような心理学的分析に、不快感を覚えずに委ねることのできる現象の一つと思っているだろう。パウロにしても、異言に面するとけちの一つもつけたくなるようだ。心理学への不快感は異言に対する不快感と結びやすい。

…心理学は、人間の体験と行動を先入観なしに理解させてくれる。…常軌を逸した言語行動にけちをつけることは、心理学の課題ではない。むしろ、グロッソラリア行動を偏見にとらわれずに科学的に検討する必要がある。おそらく、ほかならぬグロッソラリアの科学的研究というこの道を行けば、グロッソラリアという奇妙な現象を好意をもって寛容に眺め得る立場に達することができる。」(「パウロ神学の心理学的側面p385」





〔T〕救済史観による「異言現象」の意義

  1、選民意識の救拯史観による解釈

   @ アブラハムモチーフの召命の「出来事」−安定からの脱出、巡礼の旅
     モーセの律法「制度」−未来の約束の希望
   A モーセモチーフの「出来事」−救済の象徴−シナイ、律法の授与 
     出エジプトの決断−50日ペンテコステ−選民、民族の誕生
   B ダビデモチーフの「出来事」−シオンでのダビデの幕屋の設置、「国家の誕生」
     建国、 神の国の来臨―メシヤの待望。

  2、救済史におけるペンテコステ理解

   @ イエスの十字架とモーセモチーフ理解−贖罪と復活
   A ペンテコステ−聖霊降臨と律法の付与理解
     シナイ山での律法付与−ペンテコステの聖霊付与
     選民イスラエル(ユダヤ民族)―霊のイスラエル(キリストの教会)
   B 聖霊降臨と終末の解釈
  

〔U〕「異言現象」の形態の問題

  1、ゼノグロッソ―グロッソラリア

@ 使徒行伝における異言現象の変動の経緯

使徒2章の最初の聖霊降臨における「異言現象」では語る人にはわからないで聴く人にはゼノグロッソ(既語)として理解できる言語であった。8章のサマリアでは聖霊を受けたと記録しているだけで異言現象や他の現象は記録されていない。しかし、コンテキストから視覚的なな現象があったことはわかる。また、19章のエペソの教会での受霊については明らかに異言現象があるが個々では言語現象としての既語かどうかの現象には触れていない。パウロのコリント教会での書簡との関連からするとすでに「異言」は認識されない、即ち、理解されない言語として体験されていたといえる。むしろ、話し手に理解出来ないが、わかる聞き手がいる時にだけ理解される。換言すれば、異言を語る人には理解出来ないが、その言葉を理解する人がいないときには言葉は言語として確認されないが、言語であると確信することになる。

コリントT12,14章では異言の賜物としての現象では異言は語るものにはわからない、しかし、異言を解釈することをパウロは勧めている。第三者か当人が解釈することを求めるのである。解釈出来ることは解ることである。それは聖霊の業としての神の言葉である。このような形態はルカ文章ではでてこない。異言は未習熟の言葉を通じる言語として語る奇蹟であって異民族への宣教のしるしとしての機能を果たすと考えられる。しかし、聖書のテキストでは証明する資料はなく類推の域をでない。異言は無意識の言葉として伝承されたと考えられる。

A ペンテコステ運動における「異言現象」の経緯

アメリカにおけるペンテコステ運動の要因を世界宣教への熱意を実現するための「言語習得」のフラストレイションにおく見方がある。実際に、トペカの異言現象ではA・オヅマンの受霊現象ではゼノグロッソとして伝承されているが、一般的現象であるという歴史的な記録はないようであり、むしろ、使徒行伝2章のゼノグロッソ現象をモデルに自らは理解し難い異言として語っているが、それは既知の言語と信じられ、実際に、海外宣教に踏み出すケースが起こり現実には言語としての役に立たないために悲惨な結末に終ることもあった。ロス・リバイバルにおいても多民族の移住社会での言語的交流の錯誤が依然、現実にはグロッソラリア現象でありながらゼノグロッソとして理解という近年の研究報告がなされている。一方、世界規模で拡大するペンテコステ運動での「異言現象」はグロッソラリアとして言語ではあるがどこの地域での言語であるかは推測の域を出ない。実際には「人間が語ってならない言葉」(コリントU12:4)人が語れない言葉、「天使の言葉」を語ると理解する、無意識の言葉としてのグロッソラリアを受容しているのが共通理解となっているといえる。

日本におけるペンテコステ運動の経過状況でもグロッソラリアはゼノグロッソとしてのケース記録はないというのが現実である。依然、グロッソラリアが言語学的確証にこだわることはアメリカ社会での宗教文化の偏見による要因であるといえる。欧米社会での新宗教運動はカルトとしての評価に始まり、社会的認知されてセクトとなり、社会的に受容されることでキリスト教の立場を確立することになる。ペンテコステ運動はグロッソラリア運動として経緯してネオペンテコステ運動を通して超教派的な運動となり、依然、「異言現象」を理解しながら批判的な、特に保守的福音派でのカリスマ運動は異言現象を否定的にとらえ「第三の波」といわれる運動として推移している。ペンテコステ運動が一世紀を経て、クラシック・ペンテコステ派は依然、グロッソラリアを独自性にしているが、近年、繰り返し受霊のしるしとしての「異言」の枠組みを取り払う、または拡大解釈する議論がある。

  2、グロッソラリアの理解の変遷

@ 聖霊降臨の現象の意義

キリスト教では 聖霊降臨の現象によって「キリストの教会の設立」と解釈する。聖霊の降臨は聖霊の時代を意味する。(救いの時、恵みの時コリントU6:12)真理の霊、即ちキリストの霊(ヨハネ16:17)の時代。キリストの使命はキリストの共同体としての教会が継続することになる。そこでは聖霊の傾注によって福音の理解が確立する。同時に、キリストの使命である宣教の使命を実行するカリスマ(聖霊の賜物)を委ねられる。救いと使命を達成する霊の力がそこに与えられている。「ただ聖霊があなたがたにくだる時、あなたがたは力を受けて…わたしの証人となるであろう」。(使徒1:8)「あなたがた」とは正に、キリストを救い主と告白する共同体を明示するといえる。その共同体は証人、即ち、宣教のために立てられ、そのための能力が与えられていることになる。贖罪と受霊が同時に体験されている。ペテロの説教ではキリストを信じることと聖霊の賜物(ドウロン)、聖霊のバプテスマを受けることとを分けていると考えられる。

A 原始教会における「異言現象」の理解

使徒行伝では2章と(受霊現象の資料は個人的なパウロのケースを除いては)8章サマリヤの出来事。10章のコルネリオの家における事象。19章のエペソ教会の事象である。明らかに救いを受け入れることと聖霊のパプテスマを受けることは別であるということは理解出来るが、コルネリオの家での事象では洗礼を受ける前に受霊している。また、エペソでもテキストの前後関係から受洗と聖霊を受けることが同時に起こり、受霊することにこだわっていることから受霊が救いの確証と理解出来ると考えられるようになった。ルカ文章はパウロのコリント教会からの関連も考えられる。とすれば、コリント書簡の霊の賜物をめぐる問題として12章―14章に論じられている「異言体験」が際立った共同体を構成する者の象徴となっている。

そこでは、カリスマがキリストの共同体において生けるキリストの証明として表され、異言は受霊のしるしと共に、公同の礼拝での異言はメッセージ(解釈されると預言のメッセージ)として作用すると共に、「異言が語れること」が「霊の人」(プニュウマトコス)(コリントT14;37)として信仰の位置を高めることが混乱の原因になっていることが問題であった。

パウロは霊的なエクスタシー現象よりもイエスは主であることを告白することに重点をおいている。12章の1−3節には異言現象との対比において聖霊によらなければ「イエスは主なり」とは告白出来ないとしている。実際において「イエスは呪われよ」という声が会衆の中から聞かれたということである。異言が共同体の所属意識を強化していることの幣害を是正しようとしている。しかし、決して、パウロは異言を軽んじる意識はなく、むしろ基本的キリストの共同体のあり方から個人の徳を高めるとする異言を実践的に勧めている。「わたしはあなたがたのうちの誰よりも多く異言が語れることを、神に感謝する」。(14:18)と言っている。また、「異言を語ることを妨げてはならない」。(14:39)とも言っている。

パウロは「異言」を個別化と相対化で対応する。個別化は異言が共同体の徳を立てないとする。異言は個人の徳を立てるとすることにおいて価値の優先をおくよりは共同体の徳を立てることを勧める。(14:4−5)相対化において、カリスマの九つを上げて役に立つ順位と理由について(14:6、12:1−3)指摘する。そして、「すべてのものが異言を語るだろうか」(12:30)と問いかける。明らかに、ここでは救われているクリスチャンと聖霊のバプテスマのしるしとしての異言については判別している。

やがて、カリスマは超自然的霊の賜物(12:4−11)からすでに12章18−29節では補助者、管理者が登場する。ロマ書12章では奉仕、寄付、慈善までを上げてる。キリストの教会のすべての奉仕はカリスマ、霊の恵みによって働きがなされているということになる。このような経緯からカリスマは制度の中に組み込まれ、解釈されて形態を失うことになる。これは決してパウロの意図するところではない。「熱心で、うむことなく、霊に燃え、主に仕ええる」(ロマ12:11)ことこそが彼の真意であったといえる。

  3、「異言現象」の言語現象の問題性

異言現象において聖霊のバプテスマの「しるし」として特定する事は出来るのか。根本的な問題である。異言現象は個別的な体験である。個別的な体験を普遍化することは共通点が確認されなければならない。異言現象の共通点は語っている人にはわからない言語であるということである。

聞いている人にも分からないとしたら「異言」を推定でしか判断出来ないといえる。それはあくまで第三者が判断することになる。それは信仰による受容による。そして「しるし」に伴う「しるし」としての原始教会に見られる宣教の業がさまざまな形で伴うことによって確認される。いずれにしても蓋然性は残る。

聖霊のバプテスマを強調するために「異言現象」を求めることが先行し人為的な手法がとられることは誤解を招く大きな原因である。

  4、「異言現象」の教理化の根拠と問題性

現象―体験、行動を普遍的に確証的根拠と出来るのか。繰り返されるボスワ−ズ事件の問題提起。
蓋然性が残る体験―異言現象を教理化することは問題は繰り返し問題提起される。「聖霊」を受けても信仰生活が変わらない。受霊していなくてもより立派な人格、よく伝道する、などである。

1918年第6回の米国アッセンブリー教団では「聖霊のバプテスマを受けたときの証拠として異言を語る」ことをテーマに議論された。ダラスのペンテコステ教会の牧師であり教団創立発起人であったF・F・ボスワーズが問題提起した。

「その動機は、牧会経験からでたものであった。異言を語っているが、ただそれだけという人々、異言を語らせようとする人為的テクニックなどの指導上の誤り、一方、異言を語らないが、立派に用いられているクリスチャンがいることから疑問を感じた。ボスワーズは“異言は聖霊の一つのしるしであるかもしれないが、唯一の証拠ではない”という観点に立った。そして実際に説教を始めたため、教団の中から批判が起こってくることになった。そのためボスワーズは、自らの主張を時期総会で取り上げて欲しいと要請を総理ウエルチに送った。そして、第6回総会でこの問題が取り上げられ、、二つのテーマでとして提案された。『異言が唯一の証拠』であるか、その二は『使徒行伝の異言とコリント書簡の異言には違いがあるのか』というポイントであった。

第一については、使徒行伝中はすべてにおいて異言を語っていることが確認された。そして、ボスワーズがコリントT、12章30『みんなが異言を語るだろうか』を根拠として『語らないものもいる』と結論付けた事に対して、使徒行伝の異言は証拠としての異言であり、コリント書簡の異言は賜物としての異言であって、その目的は異なることを明確にして、つぎのような結論を出した。

『聖霊のバプテスマの証拠についてのペンテコステ信仰の標準は、有名人の経験ではなく手、神の言葉である。私達の経験に聖書を合わせるのでなく、聖書の私達の経験を合致させたい。私達の中のいかなる教職も、聖霊のバプテスマには御霊が語らせるままに異言を語るという、明白なあかしを誤りだとして攻撃する者は、それがいかなる人であれ、その人がアッセンブリー教団の教職資格を保持することは不自然であり、非聖書的である。』であった。これは全員一致で決せられ、ボスワーズはクリスチャン・アライアンスの総会へと旅立って行った。」(「講壇」25号p92)

ボスワーズ事件の問題は問われ続けられてる。しかし、このアッセンブリーの第6回総会での決議は今もアッセンブリー(ペンテコステ運動)の基本的な方向付けとなっているといえる。

〔V〕「異言の現象」の意義

  1、「異言体験」の検証

   @ 異言現象におけるヌースとプネウマの理解について

    グロッソラリアは受霊のしるしの現象として理解される体験となった。原始教会の形成の推移の中でカリスマ(霊の賜物)の賜物の一つとして作用することによって預言の作用に位置付けられる。現れについては違うが異言の形態は同じと考えられる。本来、異言は聖霊の臨在を体験する象徴的現象として理解された。神の霊を吹き込まれて語る霊の言葉であって、無我の法悦―エクスタシー状況で語るといえる。そうすれば人間のヌースを神のプネウマに明渡す、プラトンの哲学思想のいう霊感を吹き込まれた者は神の意志の道具であるのだろうか。そこでは人のヌースは人間を去って神的プネウマと入れ替わることになるのか。

パウロは「わたしは霊(プネウマ)で祈ると共に、知性(ヌース)でも祈ろう」。(コリントT14:15)と言い、プネウマとヌースとの対立はここでは結びつき補い合うのである。「預言者の霊は預言者に服従するものである。」。(コリントT、14:31)エクスタシーの異言現象の動因を超主体的なものとしない。あくまで、異言は人間の主体の言葉と理解されている。
 異言経験は無我のエクスタシーとしての神秘経験、即ち、神人入滅融合ではなく、あくまでも神と人は、「我」と「汝」の関係であるという理解である。

   A 異言現象の形態の理解について

異言体験が霊的経験として理解出来ない言葉で語るとき、心的現象として内外両面を総合的に理解することを避ける事は出きない。コリントの教会では異言現象の共同体識別の強化作用によって価値付けの行き過ぎの是正がなされ、本来的キリストの教会を立ち上げるために批判的に相対化をはかった。一転して、ロマ書では極めて個人的に肯定的に異言現象の理解を展開している。ロマ書8章の28節「御霊もまた同じように、弱いわたしたちを助けてくださる。

なぜなら、わたしたちはどう祈ったらよいかわからないが、御霊みずから、言葉にあらわせない切なるうめきをもって、わたしたちのためにとりなして下さるからである」。このテキストが異言現象と理解することには色々と議論があるが、「どう祈ったらよいかわからない」が御霊がうめきをもってとりなして祈らせられると解すれば、異言の表出の理解に道筋をつける事になる。神だけが霊によって人に語らせるのではなく、人がいいたいこと、言わなければならない、伝えなければならないことが言えない、そのことを、神の霊は「弱いわたしたちを助けて」言葉にすると言える。

神の霊が内から出させる事柄より、自分自身が無知であることが根本的な問題である。「切なるうめき」は理解出来ない、無知なる苦悩する自分自身を執り成し、心理分析学で言う元型の原始において失った事柄、即ち、「影」に遭遇させられるのである。また、「本来的自己」をキリストのリアリティ体験において自己実現へと昇華させられるのではないだろうか。コンテキストから被造物の「うめき」、宇宙的な「うめき」「実に、被造物全体が、今に至るまで、共にうめき共に産みの苦しみを続けている」。「わたしたちも自身も、心の内でうめきながら・・・体の贖われるのを待ち望んでいる」。(ロマ8:22−23)はすべての被造物、全宇宙的に失われている栄光、本来のあり方を待ち望んでいる現実がここにある。創造の原初の調和の回復を表している。

2、異言現象の象徴的意義

   @ 人間の有限性の体験―自己理解 自己発見 

「本来的自己」(the Self)完全な自己成就。個人は分かち難く全体と結合する。個性化―他者との違い―しかし、分離し難く全体と結びつく。
知られざる自分―自分自身がわからないことを認識する。「影」の認識―無意識への開示。「本来的自己」(失われた自己)−「わたしはどうしたらよいのか」(使徒2:37、16:30)―「本来的自己」イエス・キリスト(完成された自己―神の完全マタイ5:48)赦された自分の全人格的な自覚。

A 有限性から無限性の自覚―霊性の回復

原初的な自己経験―ルーハーに生かされている。霊聖の認識。有限な知識(コリントT、2:12−14)は無限なる霊を人格的に認識し得ない。霊(自己)の覚醒、聖霊の支配、神との交流。   全能、無限、超自然的能力の体験的認識。

B 霊的認識のリアリティ―イエスの復活事件のリアリティ歴史的キリストの現実的経験―「わたしたちととしては、自分の見たこと聞いたことを語らないわけにはいかない」。(使徒4:20)聖霊を受ける―「証人」(使徒1:8)となる。聖書の記録の歴史の原点に立つ経験。現実では生けるキリスト、復活されたキリストがリアルに実在として体験される。この霊的体験に基づいた霊的確信が信仰生活を確立する。

*「生ける主と出会う」自己発見とキリストの贖罪、神の子となる究極的な「喜び」が力となる。
「キリストを見たこと、聞いたこと(体験)」の証人としての宣教。

3、異言現象のカリスマ(霊の賜物)とドウロン(しるしの賜物)

異言現象(受霊)はキリスト体験(贖罪)―認識が先行する。

「キリストの血が注がれて、聖霊が注がれる」(ドナルド・ジー)
使10:46―洗礼(信仰告白)と受霊(聖霊のバプテスマ)

今日のキリスト教会の救拯論において救拯は聖霊の業であるということは一般的であり、「聖霊を受ける」ことは救い(聖霊の内住)と受霊(聖霊のバプテスマ)とは同時の意と理解されている。(コリントT、12:3)

一方、「聖霊のバプテスマの『しるし』は『異言』であって、救われているかどうか、クリスチャンであるかどうかを判別する『しるし』である」とする見解がある。その主な根拠は、

イ、コルネリオの家の事象において「受霊」(使徒2章)している。即ち、「異言」を語っているのをみてキリストを受け入れていると確定している。(使徒10:46)

ロ、ペテロがエルサレムで割礼をめぐる論議の際、宣教報告結果での弁明においてである。

ハ、19章のエペソ教会で、パウロが信者の信仰を確認して「聖霊を受けたかどうか」をたずねた。これは明らかに「異言」のしるしの確認であるというのである。ペンテコステ運動は歴史の流れの中で今日、クラシック・ペンテコステといわれるバプテスト系、ホーリネス系、ペンテコステとユニテリアン・ペンテコステ派に分かれているが、後者の大きな特徴は一つに様態論的唯一神論である。一つは、「受霊」を「救拯のしるし」とすることにある。即ち、「受霊のしるし」としての「異言現象」を経験することによって「救いの確証」とする。前者は、伝統的に正統的神観といわれる三位一体の神観に立つ。そして、「救い」(洗礼)は「イエスを主と告白する」ことであり、聖霊のバプテスマの「しるし」は「異言現象」であると区分けして理解している。  

3、初代教会(パウロ書簡)における異言現象の理解

ルカ文章(使徒行伝)だけで「異言現象」を検証して「聖霊のバプテスマ」の「しるし」の異言現象が、「救い」のしるし、確証であると結論して、更に、パウロ書簡のコリント第一の手紙で「異言」を検証すると12章―14章で論じられていることは、確かに「異言」が共同体の選別的象徴になっているように見られる。

「聖霊のバプテスマ」の「しるし」として異言を語ることは、カリスマとしての異言のメッセージを語る人となることと想定できる。公同礼拝の場で共有されるカリスマの「異言」が現れるときに礼拝の混乱が起こっている。それは理解出来ない言語としての問題である。そこで解釈の問題が出てくる。

実は、中心的な問題は「異言」が一つの共同体の基本条件になり、本物、未熟な信者の区分けが出きる。対外的には心理的、社会的強化が出来ている。そして、「異言」を語る人を「霊の人」、または「円熟した信者」として階層化している。明らかにここでは「本当に救われているかどうか」は「異言」を語れるかどうかであったといえる。

おそらく、ルカ文章から「異言」を「救いと聖霊のバプテスマのしるし」と傾向ガコリントでも起こっていたのである。ではこれを教理として教会の規範にする事が出きるのかパウロは書簡で「否」の答えを提示するのである。
12章の始めに「兄弟達よ。霊の賜物については、次ぎのことを知らずにいてもらいたくない…聖霊によらなければだれも『イエスは主である』ということができない」。(12:1−3)

上述したようにパウロは「異言」を先ず、相対化してカリスマの賜物の序列化をする。重要なものと役に立たないものとの区分けである。(14:13―19)更に、個別化で「異言」が個人の徳を高め、「預言」は教会の徳を高めることを強調する。(14:1−5)そこではキリストの教会を立てることこそが優先される。一方、パウロは、決して聖霊の業なる「異言」を軽視しているのではない。「異言」を語る優位を誇る人に対して、自分がだれよりも「異言」を語る事ができると自負し、(14:18)「『異言』を語ることを妨げるな」814:39)といっている。

そして、「みんなが異言を語るのだろうか」(12:30)ということは語らない人もいるのである。「聖霊によらなければイエスを主と告白できない」(12:3)ことから明らかにパウロは「救い―聖霊の内住」と「聖霊のバプテスマ―受霊(しるしとしての異言)」の違いと確定している。パウロにとって聖霊の業は「生けるキリスト」の証しとしての使命のキリストの教会を形成することであった。だからこそ、パウロは「愛を求めなさい」(14:1)と勧め、キリストの愛から目を離してはならないと13章に明示している。聖霊の本質は「キリストの愛」である。

4、異言現象が聖霊のバプテスマと贖罪(救い)の象徴性の問題―使徒行伝における証言

パウロの視点からルカ文章を解釈すると、先ず、2章ではペテロは「キリストによるバプテスマを受けなさい」と勧め、「そうすれば聖霊の賜物」(賜物―ドウロンであって、カリスマではない。聖霊のバプテスマの経験)とは明らかに分けている。次に、8章のピリポのサマリヤ伝道で人々が“イエス・キリストを信じてイエスの名によるバプテスマ(水のバプテスマ)”を受けた。エルサレムからペテロとヨハネが来て按手すると聖霊が下った。ここでは鮮やかにキリストを信じることと聖霊のバプテスマを受けることとは違うことを示している。このことからもコルネリオの家については、当然、ペテロの説教を聴いてイエス−キリストを救い主として受け入れたからこそ、聖霊が下ったのである。聖霊が下ったからには洗礼を当然受けさせても問題はないと判断していると見ることの方が自然ではないか。

11章、(割礼をめぐる問題)15章(律法をめぐる問題)の弁明では2章の解釈がされている。キリストを信じた時、“聖霊の賜物を受けた”、即ち、この賜物は「異言」のしるしを意味していのだろうか。確かに紛らわしい。ここでは「異言現象」が確定しているように解釈出来ないことはない。しかし、8章では明らかに「主イエスの名によってバプテスマを受けていただけで、聖霊はだれにも下っていなかった。」(8:17)イエスを信じることと聖霊を受ける、即ち、聖霊のバプテスマ受けることの間には明確な時間がある。その時間の長短によらず、「イエスは主である」ということと「聖霊のバプテスマ」は違う経験であるということである。そして、「聖霊によらなければイエスを主であると告白できない」(コリントT、12:3)という見解が整合性がある。逆に「異言」にこだわるとすれば、「イエスを主と告白していなくても」異言を語れば“救いの確証”になるのか。これは肯定されえないことは確かである。

「異言現象」を始め、その類似的神秘経験が諸宗教にも見られる。パウロも聖霊の賜物との関連で「兄弟たちよ、霊の賜物については、次ぎのことを知らずにいてもらいたくない。あなたがたがまだ異邦人であった時、誘われるまま、物の言えない偶像のところに引かれていったことは、あなたがたが承知しているとおりである。」(コリントT、12:1)といっている。それは他の諸宗教と比較の中で霊的エクスタシーがあると言うことを示唆している。そして、「神の霊によって語る者はだれも『イエスは呪われよ』とは言わない」。(コリントT、12:3)という意味はユダヤ教の会堂で習慣的に叫ぶ言葉が強化され、習慣化されているために突然出て来る現象であるのではないだろうか。

このことから「イエスは主である」との告白を聖霊に帰着している。マイセンは伝承分析において次ぎのように提示している。「われわれにとって重要な類似現象は、三グループの分けられる。バッコス信者の陶酔、プラトンの霊感、黙示文学の三つである。バッコス信者陶酔は運動性エクスタシー状態の集団現象、プラトンの霊感では性状をこえた状態での洞察を扱う。黙示文学の天使の言葉では、言語行動そのものがエクスタシー状態で変化する。この三種の類似現象のどれもが、原始キリスト教におけるグロッソラリアのいろいろの面を明らかにしてくれるはずである」。という。(前掲p393)このような現象が歴史的相対性の中で起こることがあるが問題はその現象への解釈にあるということである。ルカの自己理解の前提は救拯史観にあることは言うまでもない。イエスの十字架と復活の出来事の意味の理解が聖霊降臨で起こっている。人々の内面で受霊の意味が自己理解される出来事(現象)が基礎になる。あらためてペテロは「イエスを主と告白」(洗礼)することと「聖霊の賜物を受ける」(聖霊のバプテスマ)とは分けていることから、同じペテロが11章での弁明でも同じ見解に立っているといえる。

19章でのケースもパウロの書簡での見解からして「異言」が「救いのしるし」であるとは認識しているとは考えられない。原始教会の発展推移の中で「異言」が強化されて本来的福音のあり方からそれて行ったと見るべきであろう。

@ 異言現象の継続性の理解

しるしとしての現象がカリスマ現象に先行するのか聖霊のバプテスマの「しるし」としての異言経験のあと色々な聖霊の賜物に用いられるのであろうか。特に、賜物としての異言のメッセージと「しるし」としての異言については公同の礼拝会の異言のメッセージが「異言」を語る始めての時は、それは受霊の「しるし」とみなすことが自然であるのではないだろうか。また。「異言」を語らないが他の霊の賜物に用いられることがあるか。それは現実である。しかし、パウロは「異言」の公同の場でのつつしみは勧めるが、また、個人的な「異言」の祈りを積極的に勧める。「異言体験」は信仰生活に画期的な変化を与える。

Aカリスマ(霊の賜物)の意義―キリストの現臨

聖霊降臨のあと原始教会は色々な状況の中で共同体として交わりが形成されていく。共同体の機能は聖霊の賜物である。聖霊の賜物は個人に職制として固定化されていたのではなかった。聖霊の賜物は共同体の使命としての機能の推進にあり、イエスキリストの現実在の表象、キリスト、そのお方の機能としてのあり方である。聖霊論はキリスト論、そして教会論とは本質的に結びついている。聖霊のバプテスマは個人のキリスト現在的体験理解である。

〔W〕聖霊のバプテスマの現象に表された意義

使徒行伝のペンテコステ経験の実質的な意義は受霊の後の交わりの変化にある。聖霊経験は何をもたらしたのか。すでに百二十人が待望していたのであり、そこには交わりがあった。その交わりがキリストを主と告白する共同体になり、どのような変化を顕示したのかが受霊の意義となる。三つに纏められる1、キリストの福音の理解、2、生活の変化―聖化の内実、3、宣教への献身である。

  1、福音理解の意義―教会形成の基礎  教会の誕生―信仰の告白の原形
   「キリスト教信仰共同体が異言のもとで誕生したことは、歴史的に議論の予知がない現象である」。
(モルトマン「いのちの御霊」p277)

@十字架と復活の出来事―意義の認識
  
ペテロの最初の説教―神の定めた計画、使2:23。 復活の主、使2:24。 イエスは主、使2:36。キリストの教会がその告白によって形成されていった。

A民族の枠組みの解放―愛の実現

民族間の相克打破 使8:9−17 サマリヤ人への差別の克服。エペソ14−17
選民イスラエル(ユダヤ教)の中の差別が打破される。ユダヤ教の伝統の根本的枠組みの除去。

B異邦人の救いの現実―アブラハム契約の実現 使10:1−48

世界宣教への道―異邦人への宣教の道筋。  異邦人とユダヤ人との相克と差別。―家にはいるな。
共に食するな。交わるな。  ペテロは聖霊による幻―食物規定の克服。

  2、受霊の聖化の意義

@新たな共同体に“ひたすら”使徒の教えを聴き、守る。家では“食事礼拝”をした。(使2:42−47)キリストの愛の共同体。

A信仰の本質的経験

信仰―服従  愛の行為    神に聴き従う 使4:19−20(確証としての実 ヨハネ15:7−8)妥協なき信仰。
  
B 内的変化―外的変化  聖別―献身  所有欲の解放―心の清貧 謙遜 誠実(5:1−11)。キリストの愛に生きる。自我の解放。

* キリストの言葉に生きる(父なる神への御心)―清潔。規範と現実の相克。聖化の体験的理解は神に近づくことと、自己の罪(汚れ)の自覚とは反比例する。そこでの贖罪経験は赦された喜びと比例する。そこには罪赦されたわたし、誇るものが全くないわたしがある。「謙遜」でしか生きる事のできないわたしとなる。それは、神としてのキリストが人になり、しかも、人の僕となられた姿の「わたし」があることになる。

* 聖化とは究極は謙遜にある。謙遜は「神の愛」の根源的表出であるといえる

* 聖霊への絶対信頼―服従 (4:19−20)

  3、宣教の意義―聖化の確証として

@大胆な宣教―み言葉のリアリティ  率直な福音の証言(4:29−31)

Aしるしの宣教―カリスマの確証
信仰による聖霊の賜物(カリスマ)
聖霊の賜物―聖霊の業、キリストのリアリティの表象  使2:43

B信仰の実践の宣教―全能の神、すべてを備えられる神 (アドナイ・エレ)
 迫害への受容と世界宣教―失われない喜び(8:1−8)

〔X〕ペンテコステ運動の課題

「異言現象」の意義をめぐって検証してきたが体験を教理化することは蓋然性が付きまとう問題がある。しかし、現実に起こる現象を受容するか、拒絶するかはキリスト教の霊性の本質に関わることになる。残されている2,3の課題を提起したい。

1、異言は預言であるのか。

「異言を語る者は、人にむかって語るものではなく、神に向かって語るのである」。(コリントT、14:2)パウロはカリスマの異言は解き明かすように勧めている。「もし異言を語る者があれば…ひとりがそれを解くべきである。もし解くものがいない時には、教会では黙っていて、自分に対しまた神に対し語っているべきである」。(コリントT、14:27−28)異言は解き明かされるとき預言となると考えられてきた。預言は理解できる神の言葉、メッセージである。

異言が「神に向かって語られる」とすれば「賛美」あるいは「祈り」ではないかという説もある。賛美は神を崇め、ほめたたえることにある。それは人のこころの思いを語ることでもある。異言は本来、人の言葉ではなく霊の言葉であるとするとそこには整合性はないことになるのではないだろうか。異言の本質的な理解が人を道具に神が語られる現象ではなく、人があくまで自制し得る責任において語る現象であることから本来、人が語らなければならない、語るべきこと、即ち、「神への真実の信仰の告白」であると言えよう。

それは、形式的、皮相的な、知識に偏向した告白ではなく、全人格的、根源的な内奥の無意識の世界をも包含するものである。即ち、この意味から「祈り」は「告白」であり「賛美」と「感謝」を表すことと符合する。「異言」が主体的な言語表現であることになる。

2、異言の効用

パウロはコリント教会での公同の集会での「異言」をめぐる優越的強化についての弊害を是正するために個性化をはかる。「異言を語るものは自分だけの徳をたかめるが、預言をする者は教会の徳を高める」。(コリントT、14:4)換言すれば、預言は教会を形成するが、異言は個人の信仰を立てあげるということである。ここでいう「徳」はオイコドメオウで、家を建てるから来ている言葉であって「基礎を置く」、「徳をたかめる、強化する」などに使われる。

個人だけの信仰の高揚と強化、根本的な基礎を築くことを目的としているというのである。キリストの共同体では個人よりも全体の調和と協調が優先することを言てっている。それは会衆全体が解ることが優先される。異言は会衆の集会では禁じはしないが解き明かすことを協調し、消極的な否定であるといえよう。

しかし、異言を妨げてはならないともいい(コリントT、14:39)、一方では、だれよりも自分(パウロ)は異言を語れることを感謝している。換言すれば、異言による個人的祈りは極めて素晴らしいと言っているのである。それは「異言の祈り」は継続的な聖霊のバプテスマの経験を意味し、個々人の霊性を深め、ゆるぎない信仰の基礎をオイコドメオ(強化、確立)することになる。徹底した献身、妥協なき自己の明渡し、純粋なキリストへの服従、宣教への大胆な告白などが現実の証しとして生活に現れてくる。

実は、そのことがキリストの愛の極めて現実的な実践の証明である。聖霊のバプテスマによる個性化は、実は、強固にして、生きた、聖なるキリストの教会の基礎となる。実は、個々人の強固にして、堅実な、徹底した信仰の集合が共同体を形成するのである。人はキリストに近くなればなるほど、人と人は強固に一つになる。それが真実の生けるキリストの教会であると言える。パウロはだから「愛を求めること」を勧める。「異言」の賜物の本質は「キリストの愛」である。

3、再び、聖霊のバプテスマのしるしについて

聖霊のバプテスマの「しるし」をめぐる問題はその現象の多様な現れによって解釈が分かれる。「受霊現象」をどの範囲で現象の及ぼしている影響を限定するかで理解が別れてくると言える。受霊現象の前後の異象をみる限り2章では激しい風の音、舌の炎、異言現象である。8章では視聴覚に確認出きる事が起こっている。具体的に何かはわからない。10章では異言現象と賛美。19章では異言現象と預言する。そして決定的な証言として「聖霊の賜物が注がれたのを見て、驚いた。

それは、彼らが異言を語って神を賛美しているのを聞いたからである」。(コリントT、10:46)とある。しかし、一箇所で受霊の「しるし」と確定できるのかと言う問題提起もある。更に、受霊現象のあった後の共同体の人々の生活や行動の変化を「受霊のしるし」と解釈する説もある。著しい喜び、感謝、伝道、献身、奉仕、御霊の実などの変化の高揚が「聖霊の満たし」の「しるし」と理解し、「異言」もその一つであるが、「異言現象」が身体から現れる最初の「受霊のしるし」であるとする。

そして、これは「異言」を唯一の「しるし」としていないと言う論説である。しかし、色々な「しるし」が単に、主観的な現象として確定しないとも言い切ること出来ないとも言える。それに対してやはり「異言現象」が、むしろ、無二の現象と確定しているのが原始教会の理解であると言うことが自然であると言えないだろうか。言えることは、「異言現象」は個々人において個別的な異象であり、他の現象は極めて相対的な現象と言える。「異言現象」が受霊者にとって心的内奥に至る全人格的変革をもたらす経験であることからも摂理的現象と言える。

歴史においてキリストの教会が「異言現象」で始まったことはすべての教会が受け入れている。そこから、個人の生活と行動が決定的に、徹底的に変革され、その共同体が世界の歴史を変革してきたことも事実である。「異言現象」、即ち、聖霊のバプテスマが今日においても個人と教会を変革する起爆になっている。
キリストは弟子達に言われた。

「時期や場合は、父がご自分の権威によって定めておられるのであって、あなたがたの知る限りではない。ただ、聖霊があなたがたにくだる時、あなたがたは力を受けて、エルサレム、ユダヤ、サマリヤの全土、さらに地のはてまで、わたしの証人となるであろう」。(使徒1:7−8)


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