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「苦しまれる神」

- 東日本大震災の苦悩を巡って -


廣瀬利男

 “困難は人を一つにする”と、よく言われる。2011年3月11日の東日本大震災・津波災害は、放射能災害にも発展した人類が未だ経験したことのない多重の災害である。映像の情報進化が津波の情景をリアルに全ての人に届ける。その悲惨な情景を見て多くの人々が悲痛と苦悩を感じた。災害救助に思いを寄せながら日本中の人々に救援の連鎖の輪が広がった。“日本がんばれ”という声援の旗印は国中に広がり、救援金がどんどん集められ、今も復興の声援は続けたれらている。その声は世界に広まり世界の人々は東日本の人々の苦悩を共有してくれた。いち早く、米軍は太平洋艦隊を動員して「友だち作戦」を展開し罹災した人々の救助に携わり感動的であった。困難が世界を一つにして人の命と幸せを願う人々の尊さを実感したのであり、今もその復興の応援の声は続いている。
17年前、阪神大震災を経験した。尼崎市内でも60人の人々が命を失い、多くの家が倒壊し、新しい新幹線の橋梁までも倒壊した。始発前の発生に人々は胸をなでおろした。私は、その翌日、神戸の子供ホームの安否を気遣い遮断された国道を神戸に向かって、バイクにお寿司を満載して走った。国道は、家族や知人を心配して神戸に向かう人々、災害の中で命拾いして大阪に向う人々の長い、長い列が続いていた。尼崎から武庫川の橋を渡りしばらく行くと机の上に沢山のおにぎりを並べ、お茶を置いている人々があった。そこには「どうぞご自由に召しあがって下さい」と書いてあり、疲れたた人々が無言の内におにぎりをほうばっていた。人々の頬には涙が流れていた。私はこの情景に接した時、涙がとめどもなく流れた。苦しみの中で助け合う人の心の温かさである。知らない人、関係のない人々が助け合う姿に感動したのである。やがて通行できる道路を探しながら3時間かけて御影にたどりついた。阪急御影のガードをくぐると信号がある。「赤」でいったん停止して発進したところ、ここは坂道で寿司を後ろに満載したバイクは浮立ち横転した。痛くてうろうろする私を後続の車の人が、「どこまで行くんですか」と声を掛けてくれた。そこの子供ホームに行きますと言うと、手伝ってバイクを車に乗せて連れて行ってくれた。お礼をしたいと思って、お名前を教えていただけませんかと言うと、こんな時ですお互い様です、気にしないでくださいと言われるのである。本当にありがたかった。その時は痛みがよくわからなかったが右肩を骨折していた。
震災の一ヶ月後、防災の専門家である当時、神戸大学工学部の室崎益輝教授(現関西学院大学総合政策部教授)の講演を聞いた。印象に残った言葉に「震災パラダイス」いう言葉があった。パラダイスは天国である。震災は阿鼻叫喚の地獄である。どうして震災とパラダイスという言葉が一つになるのか。それは人が災難や困難の中で人は、人間としての心を取り戻して助け合うことを指しているのである。地獄のような試練の中で温かい助け合う人の心こそはパラダイスであると言うのである。私は聖書のヨハネによる手紙第一の4章12節の言葉、「いまだかつて神を見た者はいません。わたしたちが互いに愛し合うならば、神はわたしたちの内にとどまってくださり、神の愛がわたしたちの内で全うされているのです。」が心に浮かんできた。神がおられるところ、それこそがパラダイス・天国である。本来、人は神によって創造された。神にかたどって創造されたのである。「神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。」(創世記1:27)また、聖書は「神は愛である」(Tヨハネ手紙4:8,16)と名記している。正に、人が、神に似せられているということは、内実的に人は「愛である」ことになる。人は、愛に生き、愛に育てられ、愛によって人と共に生きるのである。これが人間の実態である。家族も社会も、国も人の「絆」、人を結びつける信頼の中でそれがなり立つ。タゴールの言葉に「信頼とは愛することである」というのがある。信頼のない愛はないし、愛のない信頼は、誠実のない信頼であり、愛のない信頼はないと言える。ドイツ語でGemeindeは共同体であり、教会の実態、教会員を意味し、市町村民を意味する。ちなみに広辞苑では「地縁的、血縁的あるいは感情的なつながりを基盤とする人間の共同生活の様式、相互扶助と相互規則とがある。」と定義している。本来、重荷を負い合い、生を共有することである。震災という異常な事態の中で「助け合う」、無条件に人であるがゆえに「絆」をそこに築く、愛の行為があることは「神」と関係がなく、信じない人であっても神に造られているゆえに、無意識になってしまっている神に造られているという自己存在を表していると言える。災害の悲しい現実の中で、見失われている人間の本質的なあり方を経験しているのである。「愛のあるところに神がおられる」、無私の愛、「大いなる愛」、即ち、「純粋な愛」、「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。」というキリストによって示されている「神の愛」“アガペー”が示されていると言える。
 国際的に有名な韓国の最大の教会として知られている汝矣島(ヨイド)純福音教会の趙ヨンギ牧師が大震災の翌日12日にインターネット新聞『ニュースミッション』とのインタビューで「信仰的にあまりにも神様を遠ざけている日本国民は偶像崇拝や無神論、物質主義に陥っている。東日本大震災はこれに対する神様の警告だ」と述べた。この発言はインターネットであっという間に人々の知るところとなった。この発言に14日、韓国のネットユーザーらの抗議が寄せられ、非難された。「現在の日本状況を見ながらもこんな発言ができるの?」また、政治家や、文化人までが非難し反省を求めた。「これは宗教ではない。集団ヒステリーだ。」「精神病者だ」というような非難が起こり、大統領府までも、日本の大震災に関する不適切な発言を自制するような要請を出したのであった。趙牧師は教会成長を通して膨大な資金を投入し、日本の宣教のために協力されたことは多くの人の知るところであり、その人柄は単純、率直、温かい人である。決して他意があるわけでなく、聖書を回想しての率直な言葉であったと思える。
“災害への発言への非難”は21世紀の社会にあって福音の真意を知ることへの警告であろうか。確かに、聖書には災害が神の裁きであり、警告としての記録はソドム・ゴモラの滅亡やノアの箱舟など多くある。単純に、災害が大小を問わず神の裁きであり。警告であると言い切ることが出来るのであろうか。かつて、教会は天動説を揺るぎない教えとしてきた。そしてコペルニクスが地動説を提唱すると異端とした。しかし、それが客観的に実証されるに至って訂正された。聖書は長いイスラエルの歴史を通して神の御心が啓示されてきた記録である。
 記録された時代の時代背景を考察し、現在までの時代的変遷経過を理解して聖書の基本的使信を解釈することによって福音を証しすることになる。試練や困難を神の裁きや警告として自覚できるのは福音を信じる人の主体性の中である。その試練や困難が何を示し、教えているかは一人一人の神の導きで悟ることである。第三者が断定,評論出来ることではないと言える。
 “神は苦しまれる”という定義は古来からの神の表象とは矛盾している。福音の表すキリストの神の苦悩とは相いれないのであった。初代教会以来、“神は苦しまれるのか?”という論争は長い間続いた。古来からの神は肉体的ではなく、神は霊であると考え、見えるのでなく、見えない。源泉がなく、生まれたものではない。不滅であって、死ぬことはない。有限ではなく、無限であり、生理的意味では外的な衝動やどのような強制にも影響されない。内的な欲求や外的な衝動からも完全に解き放たれており、自由であるのが神であると考えられている。正に無感覚な神、アパティー無関心な神こそが神であると言うのである。だからこそ“苦悩する神としてのキリスト”の姿、痛み、苦しみ、飢え、疲れ果て、神に捨てられ、死に渡され、絶望と孤独にさいなまされる姿が神であろうか?という問いかけの思考を原始キリスト教時代の教父たちは展開した。アレクサンドリアのクレメンスはキリストには食物の消化や排泄もなかったと論じたと言われている。そのような論理の中から仮現論や養子論、アリウス派が発生した経緯が腑に落ちるのである。つきまとう思意は“苦しむ神は真実の神でありえようか”という課題である。
 北森嘉蔵は『神の痛みの神学』においてアパティー無関心、無感動の神へ根本的な抗告をしたのであった。罪に苦しむ者への“怒り”と“愛”を「痛み」において媒介することを提示している。「われわれの痛みは神の痛みと合一せんがための通路となることによってはじめて癒され救われ救いは且つ意義あるものとされるに至る。われわれの傷は主の傷によって癒されるのである(Tペテロ2:24)。痛みに於いて神と一つになることは、われわれにとって唯一の念願である。この念願の故に、われわれの痛みは却って求められ愛せられるものとなる。――われわれが痛みに打ち負かされ痛みを懼れるのは、われわれが痛みをわれわれの外から否応なしに降りかかって来る災害として考える時である。従ってわれわれが痛みから逃れようとしている限り、われわれは遂に痛みを解決することが出来ない。われわれが痛みに打ち勝ちこれを解決し得るのは、この痛みをわれわれの内に求め却ってこれを愛するに至る時である。これは痛みを自己の念願とすることによって現実となる。われわれが痛みを自己の内に本質的なものとして愛求し念願するに至る時、われわれは痛みによって却って自己を強めてゆくことが出来る。この痛みへの愛によって初めてわれわれは懼れから解放されるに至る。『 愛には恐れがない。完全な愛は恐れを締め出します。なぜなら、恐れは罰を伴い、恐れる者には愛が全うされていないからです』(Tヨハネ4.18)。」(“神の痛みの神学”P97,98)と言うのである。
 苦難と痛みは、神が、御子イエス・キリストを犠牲として送られる十字架の痛みに出会うことによって、神の愛を知り、痛みを経験することによって、愛に生きることに至る。その愛による痛みを知るゆえに、キリストの愛に生きる。神の愛に生きることは、神の痛みに生きることである。言換えれば、人間の苦難と痛みの根源を神は熟知し、その為に十字架に贖罪の業をなされた。キリストの受難は、人の負うべき罪責による苦悩と悲惨のためであった。それゆえにその神の苦悩と痛みは“愛である”ご自分の本質によるのであり、その“痛みや苦悩”は神ご自身の本質である。そのキリストを信じ、“神の痛み”を経験して知り、神の愛に生きることは、苦悩と悲惨を生きる命と勇気によって生かされることを意味する。表面的な勧善懲悪的な“神の裁き”の論理では、苦難に直面した人々の原因追及となり、自己模索、五里霧中の逃避遮断となる。隠れた神は困難や悲惨の中でこそ、神に造られた人間の“痛み”を分かち合う人間の本質“愛”によって“痛み”を克服する希望となる。慰めと励ましの力の中で神の愛の素晴らしさを経験する。その生の中でキリストの言葉が真実の救いのメッセージとして輝き、人々に神の偉大さ、キリストの尊さ、聖霊において活けるキリストの恵みの生がさらに明確にされ、活ける神が明らかにされる。神は生きておられる。

「彼は軽蔑され、人々に見捨てられ、多くの痛みを負い、病を知っている。彼はわたしたちに顔を隠し、わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。彼が担ったのはわたしたちの病、彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに、わたしたちは思っていた、神の手にかかり、打たれたから、彼は苦しんでいるのだ、と。彼が刺し貫かれたのは、わたしたちの背きのためであり、彼が打ち砕かれたのは、わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって、わたしたちに平和が与えられ、彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。・・・彼は自らの苦しみの実りを見、それを知って満足する。わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために彼らの罪を自ら負った。」
(イザヤ53:3−5、11)
「苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました」                       (詩編119:71口語訳)

「わたしは、どんな境遇にあっても、足ることを学んだ。わたしは貧に処する道を知っており、富におる道も知っている。わたしは、飽くことにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、ありとあらゆる境遇に処する秘けつを心得ている。わたしを強くして下さるかたによって、何事でもすることができる。」(ピリピ4:11−13口語訳)



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