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ペンテコステ神学研究会 41回定例会発題
テーマ 「説教と笑いの構造の一考察」

〜カウセリング的説教をめぐって〜

廣瀬利男

 

1、「人間は笑う動物である」(ベルグソン)「笑い」は人間に現れる本質的特質である。笑い、面白み、喜び、楽しみは人間の基本的存在条件である。感動が人を動かすことになる。「哲学は感動から生まれる」(アリストテレス)知性は感動から生まれ、感動は興味となり物事を知ろうとする動機となる。その動機が学ぶことになり知的興味が教育として自己充足の努力を生む。人生と文化の創造性となる。

2、実際には「笑い」は創造的な面と破壊的、自虐的、厭世的、批判的な面から生まれることがある。人間の生における悪魔性と神性とのギャップの中で現れる。「私たちは、自分で自分を面白がることをしない。ただ自分の未熟さや失敗を、また自分と一致しない人や能力のない人だけを面白がる。私たちのユーモアーが自分のことや、弱者に向けられないときは、ほとんどお世辞になっている。」(ルイス・クロネンバーガー)笑いは、また、優越感と劣等感の間で生まれる。漫才の話芸ではとぼけと突っ込みでアホの役と知恵者の役で会話の“可笑しみ”を「笑い」とする。その笑いの中に庶民の優越感情と見下げの悲哀を共有すると言える。

3、「笑い」の構造として優越と卑下と言うことと同等の笑い。言い換えれば、“縦の笑い”と“横の笑い”とでも言うことができる。“横の笑い”は会社の同僚や学友仲間での「笑い」である。“しゃれ”などは正にその類(たぐい)である。友達同士で先生の癖を面白がる類である。「笑い」は、また、現象的には分類すれば「優越」「ずれ」「放出」に分かれるようである。それは、また、そのジャンルに従って「爆笑」とか、「泣き笑い」や「笑いこける」「照れ笑い」などの現象となると言える。

4、創造の秩序から生じる「笑い」と創造の秩序を破壊する「笑い」がある。神の「笑い」と悪魔の「笑い」である。人の失敗を笑い、破壊と混乱を喜ぶ、破壊的、不健康的、混乱の笑い、罪深い、無意味で孤独な闇の「笑い」である。神の「笑い」は建設的,創造的、共有的、健康的、「笑い」であり、有意で聡明な「笑い」、交わりを生む「笑い」と言える。

5、フーゴー・ラーナーは「神を“遊ぶ”創造主」と言っている(著書「遊ぶ人間」)。世界と人間の創造が神にとって必要なことであったという真理があることになる。ウエストミンスター問答書の第一問に「人生の目的は、神の栄光を現し、神の喜びを全く喜ぶことである。」とある。創造は神の喜びの啓示である。人間の創造、自然の無限の多様な造形と完全な美は、創造の可能性の極致を現す。正に“遊び”、楽しみと喜びの充足が神の創造の中に隠されている。「神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった。」(創世記1:31)創造の“遊び”に神の満足と慈しみと「笑い」がある。“遊び”は可能性を開き、具体化し創造する。その結果は“喜び”であり、“歓声”であり、{笑い}であるまた、遊びはゲームでもあり目的の達成感を目指すことでもある。いつも蓋然性と偶然性に中で勝敗が決まることになる。そこには神に敵対する悪魔性が付きまとう。その人生ゲーム、世情の営みのゲームも神のない世界では混乱と破壊の連鎖となる。しかし、神の創造性の意図としての愛と聖なる世界にあるところには勝敗はあっても敗者はいない。覇者と敗者の喜びと痛みを分かち、喜びと痛みを共有する交わり、愛によって確立された神の創造的な交わりがあるからである。そこには「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣ける」(ロマ12:15)交わりがあるからである。「遊びの神学」を理解しないで人間の実存としての「笑い」を理解することはできないであろう。

6、「笑い」はコミュニケーションのあるところにあるといえる。「笑い」は情緒であり感情であるが、しかし、理性の無い「笑い」は狂気である。意味の無い「笑い」、理解できないところには「笑い」は生まれない。理解と言うコミュニケーションがあって、その理解の「おかしみ」がより自己を解放して効果的なコミュニケーションを形成し、その証左として「笑い」が生じる。人のいるところ、生活のあるところには「笑い」がる。「笑い」は人と人とがこころを通わせる交流の絆である。対話の可能性を開くと言える。

7、説教は本来、「預言」を意味している。日本語で「説教」と表記する概念は聖書の「預言」することとは異なる。口語訳聖書ではミカ書2章6,11節で「説教」と訳されているが、共同訳では違う。
*(「口語訳、2:11 もし人が風に歩み、偽りを言い、『わたしはぶどう酒と濃き酒とについて、あなたに説教しよう』と言うならば、その人はこの民の説教者となるであろう。」「2:6 彼らは言う、『あなたがたは説教してはならない。そのような事について説教してはならない。そうすればわれわれは恥をこうむることがない』と」。共同訳「2:6 「たわごとを言うな」と言いながら/彼らは自らたわごとを言い/「こんなことについてたわごとを言うな。そんな非難は当たらない。2:11 だれかが歩き回って、空しい偽りを語り/「ぶどう酒と濃い酒を飲みながら/お前にとくと預言を聞かせよう」と言えば/その者は、この民にたわごとを言う者とされる。)
*「特に預言するための賜物を熱心に求めなさい。」(14:1)「皆が共に学び、皆が共に励まされるように、一人一人が皆、預言できるようにしなさい。」(14:31)「翌日そこをたってカイサリアに赴き、例の七人の一人である福音宣教者フィリポの家に行き、そこに泊まった。この人には預言をする四人の未婚の娘がいた。幾日か滞在していたとき、ユダヤからアガボという預言する者が下って来た。」(使徒21:8−10)
  原始教会では預言はそもそも霊の賜物としてのメッセージであり、旧約では預言者にゆだねられた神の言葉であった。「神がお遣わしになった方は、神の言葉を話される。」(ヨハネ3:34)話法の定式は「主はこう言われる。」「万軍の主が言われる。」「万軍の主、イスラエルの神はこう言われる。」等々である。神が語り人が聴く図式である。「カウセリング」はカウンセラ−とクライエントは“聴く人がまず述べる”“応答する人が聴く”ことから始まり、傾聴から始まり、共感することによってコミュニケーションを構成する。牧会カウセリングではこのコミュニケーションの後、神の言葉の主旨に従って方向性を共有することになる。説教は牧会でもあるとすれば、会衆と生活を共有する中で最も適切な聖霊の導きとしての神の言葉が伝えられるところにカウセリング説教は成り立つ。言い換えれば、生活、即ち、祈りがあり、応答として御言葉を聴くことになる。願い、思いが語られる。主は聴いて主のみこころが応答としてさし出される。聴衆はアーメンと言って信頼を告白することになる。この構図が生きた信仰生活として結実することになる。

8、効果的説教とは説教が聴衆に受容され、具体的に現実の生活に結実することにある。効果的説教の鍵は導入にある。聴衆の関心をひきつける効果は導入にある。導入でまごつき、内容不明な言葉を繰り返すことは本論や結論がうまく構成されていてもメッセージの受容効果は望めない。最初に和やかなコミュニケーションを醸成することによって聴衆は心を開く、受容する準備ができる。
その受容は共感から生まれる。それはユーモアーであり「笑い」であると言える。そこでは様々なサチュエーションから生まれる生活や世相の「笑い」が会衆をなごませ、明るくし、開放感と期待感を持たせることになる。「笑い」は問題を共有することであるからである。正に身近な自分に関係する問題となる。
本論の中でも落語で言う「中まくら」である。普通,「まくら」は導入の部分だけと固定観念から解放される必要がある。「転結」の“転”の部分での「まくら」を意味する。話をなごませる関心事で話題を転換することになる。

9、説教は「神に使わされた者」が「神の言葉」を語るのであるから、
落語の落ちのように「笑い」であー面白かったで終わることは論外である。神の言葉は命の言葉であり、人を生かし、成長させ、新しい信仰の希望に輝かせ、決断に導くときである。悪魔を「せせら笑う」勝利の宣言と新しく力強い決断の出発のときである。そこに目指す教会形成が約束されると言える。

参考文献
* ベルグソン著、林訳「笑い」岩波文庫2004年
* 山北宣久著、「福音のタネ、笑いのタネ」教文館2001年
* リチャード・コート著、木鎌安雄訳「笑いの神学」聖母の騎士社1994年
* 宮田光雄全集Y「解放としての笑いーイエスのユーモアー」岩波書店1996年
* 桂 文珍著「新落語的学問のすすめ」潮出版2000年
* 中村 明著「文章読本―笑いのセンス」岩波書店2002年
* 志水 彰著「笑いーその異常と正常」勁草書房1963年
* 桑山善之助著「笑いの科学」同成社1970年
* 現代キリスト教カウセリング全集1巻加藤常昭著「説教とカウセリング」日基出版2002年


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