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牧会随想

  「ただイエスキリストの十字架のみ」        廣瀬利男

はじめに   

教団50年、弓山師、菊池師が召された。弓山師記念集には、弓山師は「神学者、教育者、聖書学者であるというより、説教者である」という言葉があったが、加藤師の「愛の手紙・説教」の中に、偉大な説教者は、神学者でもあり、偉大な神学者は説教者でもある、という言葉がある。

弓山師は説教者であり、神学者であり、教育者であった。「愛の手紙・説教」の中で、高名な竹森満左一先生をまねたというエピソードがあった。アッセンブリーでは、弓山師の説教をまねた。「・・・・のでございます。」「・・・・人が救われるのは神学ではない、宗教ではない、組織ではない、教団ではない」と、強調する時には必ず否定がでて、肯定の言葉、「人を救い教会を建て上げるのは、キリストであり、聖霊であり、生ける神であり、神の言葉、聖書である」という流れになり、口の悪い神学生たちは、「ない、ない説教」などと言いながらまねをしたものであった。

弓山師は、「クリスチャンということの証しは何であるか」と質問された。ある学生は「酒を飲まない」「煙草を吸わない」「親切にする」と言った。弓山師は、「それらの事もクリスチャンの証しかもしれない。しかし、確かに確実な証しは聖書にイエスを主と信じる者は救われると約束されていることだ」と言い、聖書こそ信仰の確証であると言われた。弓山師は幾度となく、「聖書を人格化すればキリスト、キリストを非人格化すれば聖書である」と教えられた。我々の信仰は、聖書信仰と、聖霊信仰という二つの基本にシフトしているといえる。


ペンテコステ信仰の神学とは  

ペンテコステ信仰(ペンテコステ派)とは、正に弓山先生の無神学の神学であるといえる。それは、無神学というより、無歴史的であるということが適切であるかもしれない。「教会が新しくなる事は、古くなることである。」(「教会の刷新」)と、ウイザー・トーフトがいっているように、「古くなる」とは、教会が聖書の原点に立ち帰る事から新しくなるということである。ルターの改革も聖書の原点への回帰であり、ウエスレーもしかり、そして、ペンテコステ運動は、ペンテコステの日、聖霊が注がれた原始教会に立ち帰って刷新される運動であるといえる。それは、又、キリストに立ち帰る事である。   

コリントⅠ2章2節「わたしはイエス・キリスト、しかも十字架につけられたキリスト以外のことは、あなたがたの間では何も知るまいと決心したからである。」また、1章23節「十字架につけられたキリストを宣べ伝える。」と、重ねて言っている。イエス・キリストを宣べ伝え、イエス・キリスト以外何も知るまいということは、人間的経験、哲学や理性の知識や知恵によって語る事をやめようということであり、人が救われるのは哲学でなく、人間の知恵、ましてや律法でもない。キリスト、しかも十字架につけられたキリストを語り伝える事にするとパウロは言っている。パウロは、「否の説教」を強調していることになる。

人の知恵や知識を誇り、人の経験を頼みとしてキリストの十字架の言葉を見失う時、分派が起こる。私はパウロに、私はアポロに、私はケパに、私はキリストに、というような悲しい分裂が起こるのである。コリントには少なくとも四つのグループがあったようにみえる。(コリントⅠ1:12)パウロはコリントへの書簡を送る願い(目的)を1章10節に記している。「さて兄弟たちよ。わたしたちの主イエス・キリストの名によって、あなたがたに勧める。みな語ることを一つにし、お互いの間に分争がないようにし、同じ心、同じ思いになって,堅く結び合っていてほしい。」(Ⅰコリント1:10)パウロはここで教会の一致を願っているのである。

コリントの教会はすべての知識にも優れ、霊的にもすべての賜物にも備えられているとある。(Ⅰコリント1:5-7)しかし、どうして分派が起こるのだろうか。それは、知識を誇り、自分勝手な理解に基づいて解釈するからである。分派は解釈によって起こる。パウロは福音を宣べ伝えるのに知恵の言葉を用いず、「キリストの十字架の言葉」を語った。「十字架につけられたキリスト」その出来事のメッセージこそ、聖書の初めであり、終わり、そしてその中心である。イエスは言われている。「あなたがたは、聖書の中に永遠の命があると思って調べているが、この聖書はわたしについてあかしをするものである。」(ヨハネ5:39)また、エマオの途上の旅人たちに、「モーセやすべての預言者からはじめて聖書全体にわたり、ご自身についてしるしてある事どもを解き明かされた。」(ルカ24:27)ともいわれているのである。


聖書を語ることはイエス・キリストを語ること

ここでの聖書とは、旧約聖書であることはいうまでもない。旧約聖書はイスラエルが神の民として選ばれた、その足跡であって、歴史である。イスラエルの歴史の足跡を通して神は人類の救いの道を啓示されている。人間のかかえている基本的な問題、生きる事と、死ぬ事の間にあって、孤独と不安と絶望の現実から人が死を克服し、永遠に生きる希望を約束する救いの成就としてのイエス・キリストの「出来事」を語っている。

神は、歴史の行為の中で自己を啓示される。歴史の出来事を通して啓示される。
アブラハムが召命を受けた「出来事」、即ち、神がアブラハムに「あなたは国を出て、親族に別れ、父の家を離れ、わたしが示す地に行きなさい。わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大きくしよう。あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしものろう。地のすべてのやからは、あなたによって祝福される。」(創世記12:1-3)この言葉を語り、神の民としての召命を与えられた。救済史の具体的な原点がここにあるといえる。

そして、出エジプトの「出来事」を通して、選民を贖い救うという神との交わりの回復の基本的な啓示が与えられ、モーセの律法の授与によって、神の民の証しが確立される。キリストの出来事の基本的型が出エジプトの出来事によって預言され、啓示されていることになる。そして、エジプトから約束の地、カナンへの帰還に後、ダビデの王位即位の「出来事」によって神の民の国家樹立を完成し、永遠の神の国の到来の予告―予言が示され、約束される。

そして、神との契約からの離脱への譴責、警告、神の選民への愛と神の約束の確かさなどの神の言葉としての預言が預言者によって語られる。このような歴史の中の「出来事」、神の行為を通して、使信を、即ち、神の御心を伝え、開示してきたのである。預言者の歴史はモーセが偉大なる預言者であったと共に( 申 34:10 18:15)、様々な預言活動があった事を聖書は記録している。預言者は神の言葉を民に伝える者であった。

旧約聖書における記録は救済史の使信であって、イエス・キリストの来臨の預言である。イエス・キリストの十字架の出来事は、イエス・キリストの復活の出来事において永遠の命の保証となり、救済の成就と完成となった。イエスの弟子たちがこれを認識し、自己理解するのは、ペンテコステの日を待たなければならなかった。「助け主、すなわち、父がわたしの名によってつかわされる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、またわたしが話しておいたことを、ことごとく思い起させるであろう。」(ヨハネ14:26)キリストが語られた律法の成就としての贖罪と復活の預言が「事実」として歴史の「出来事」となり、その「意味」即ち「使信」ケリュグマとなるのは,ペンテコステの日の聖霊の降臨という決定的な「出来事」によって、キリストの弟子たちを通して実現したのであった。

そして、ペンテコステの出来事、即ち、聖霊降臨の事象は、ペテロに与えられた啓示によってその出来事が神の約束、預言の成就である事が示されたのであった。ペテロはヨエルの預言を引用している。「神がこう仰せになる。終りの時には、わたしの霊をすべての人に注ごう。そして、あなたがたのむすこ娘は預言をし、若者たちは幻を見、老人たちは夢を見るであろう。その時には、わたしの男女の僕たちにもわたしの霊を注ごう。そして、彼らも預言をするであろう。

また、上では、天に奇跡を見せ,下では地にしるしを、すなわち,血と火と立ちこめる煙とを見せるであろう。主の大いなる輝かしい日が来る前に、日はやみに月は血に変るであろう。そのとき主のみ名を呼び求める者は、みな救われるであろう。」(ヨエル2:28-32)(使徒2:17-21) 更にペテロは、旧約の言葉を引用して「あなたがたが十字架につけたこのイエスを、神は主またキリストとしてお立てになったのである。」(使徒2:36)と宣言している。

ペテロの宣言は、聖霊の業、即ち主イエスの言葉の原体験であった。(ヨハネ14:25)それは、キリストの出来事の意味、神の使信(Verkündigung)啓示、即ち「神の言葉」であった。正に「十字架につけたイエスを、神は、主またキリストとしてお立てになったのである」。(使徒2:36)という原告白に基づいて、そこにキリストの教会が成立したのであった。


生ける神の使信   

私たちの宣教とはなにか。それは「イエス・キリスト」であるという告白を伝える事である。パウロは「十字架につけられたキリストを宣伝える」(コリントⅠ1:23)「しかも十字架につけられたキリスト以外のことは知るまいー語るまいー。」(コリントⅠ2:2)と、強く決意している。この言葉に基づいてコリント第Ⅰの手紙4-12章において、コリントの教会のかかえている社会、文化、宗教の中で起こる問題と教会のあり方を指導する。

そして、コリントの生活の座、即ちその生活の仕組みと、その習慣、宗教、人々を動かす、道徳、哲学、経済、政治を理解し、問題を意識して、パウロはユダヤ人にはユダヤ人のようになり、律法の下にある人にはその様に、弱い人には弱い人に、すべての人に対して、その人のようになって、なんとかして幾人かを救うために、福音のためにはどんな事でもするという姿勢を原則とした。(コリントⅠ9:19-23)福音、即ち、「十字架につけられたキリストを伝えるためである。」

そして、12章―14章でキリストの教会のあり方を示し、キリストの中心は「神の愛」の啓示である事を13章で告白する。そして、15章の冒頭で教会の原初的信仰告白を記録している。その中心は、キリストの「復活」であって、「十字架」は「復活」の前提になる。「死」は「生」への希望となり、人生と死の虚無性は完全に克服される。「死は勝利にのまれてしまった。・・・・神はわたしたちの主イエス・キリストによって、わたしたちに勝利を賜ったのである。だから、愛する兄弟たちよ、堅く立って動かされず、いつも全力を注いで主のわざに励みなさい。」(コリントⅠ15:55-58)と奨励している。イエス・キリストの贖罪について、ローマ書は詳細に語る。

エペソではイエス・キリストを信じる人々のキリストの教会の本質について語る。聖書66巻はイエスキリストを中心にした有機的な救済史の記録である。

そして、今日的課題は聖書の歴史が問われている。現代の実証主義的思潮は聖書を歴史の「出来事」でなく初代教会の人々の心情的な憧憬の産物として理解する。それではキリストの教会の宣教、わたしたちの宣教はむなしく、信仰もむなしく、空虚となる。それだけでなく、わたしたちは偽証人である。(コリントⅠ15:12-19)それだけではない。すべての人の中で最もあわれむべき存在となる。聖書の証言する神の救済の歴史は事実としてあったことを聖書は宣言している。

今日は科学の時代、知性万能であり、理性によって実証できないものは存在しないとする。キリストの出来事は、古代の人々の思考の未開性から出来た物語であるとする。古代の人々は知性や理性が未成熟であったのか。確かにそうであったとしても、聖書は盲人がキリストによって癒された時、「生れつき盲人であった者の目をあけた人があるということは、世界が始まって以来、聞いた事がありません。もしあのかたが神からきた人でなかったら何一つできなかったはずです。」(ヨハネ9:32-33)と告白している。

又、イエスが「わたしは死んで復活する」と、言われた時、弟子たちのうち事実としてそれを受け入れている者はいなかったといえる。復活されたイエスが弟子たちに幾度となく出会われるという「出来事」を通して、事実を否定しきれなくなっていくのであった。パウロは、コリントⅠ15:4-8までに、ある時は12人、ある時は500人以上にイエスは出会われているといっている。聖書の歴史性が現代的思想によって失われる時、信仰は失われる。聖霊の働きは単なる空疎な形式的なものになり、絵空事になる。

遠藤周作は、事実でなくても真実であれば良いという。(「イエスの生涯」遠藤著)事実でない真実は真実であることができるのか。事実である事が真実の真実性となるといえる。聖書の救済史が形而上の事であって、哲学や単なる物語、神話であるとすればキリスト教信仰は抽象的な人間の創作宗教となる。聖書は生けるキリスト、しかも十字架にかかり、死から復活され、インマヌエルなる方として、今も共におられる方として証ししている。

「聖書を人格化すればキリスト、キリストを非人格化すれば聖書」という弓山先生の言葉は、聖書信仰を言い表している。聖書66巻は、イエスがキリストとして、神が啓示し、人類の救済の歴史を示している、「神の言」である。イエス・キリストを語る事は、聖書を語る事であり、「神の言」を宣教する事である。

イエスキリストと神の国

教会が形成され、発展しながら新約の諸文書を残した。今日の旧新約聖書66巻を聖書として教会が告白した時、聖書を「誤りなき正典」としてキリストの真理といのちと道を確立することになる。聖書を信仰の基準として、教会がそれを正典と告白したとき、教会は正典としての聖書の裁きによってのみキリストの教会になるのである。聖書の真理に基づいていのちを得、成長する。聖書に立ち帰る。即ち、キリストの十字架と復活の原点に生き続ける時に、キリスト者はキリスト者であり、キリストの教会はキリストの教会としてキリストの使命としての宣教を続ける事になる。聖書信仰は聖霊信仰によってイエス・キリストを現在化し、今,生けるキリストとして体験させられる。聖霊信仰と、聖書信仰は一つの事を表している。

聖書は歴史の出来事による神の啓示であり、啓示は聖霊による神の自己証示の記録である。(コリントⅠ2:10)聖霊の業としての記録である。モーセが燃える柴の経験を通して語りかけられる「神の名」を示された時、「わたしは有って有るもの」即ち、「わたしは有る」   は動詞「成る」(become)ハ-ヤー   の使役態であるといわれており、神は「ある」(be)神であり、「成る」(become)神であり、「共に働く」(act)神であって、三位一体なる神を表し救済される神を表しているといわれる。

モーセの「出来事」即ち、出エジプトの経験を通して救済の計画を啓示され、存在され、救済されるために人となり、歴史の中で臨在し、働かれる神として啓示されている。アブラハムの選びを通し、神の民として自己を啓示される神は、世界の創造と人類の誕生を啓示されたのである。人が歴史を記憶し、記録する以前、即ち,有史以前の創造の根源の啓示は、イスラエルを通して与えられているといえる。それは、単なる人間の想像や形而上的な推察による物語、即ち神話であるというのではない。

創世記の創造記録は人間の経験した歴史の中で継承されている古代世界の創造神話の資料があるとしても、聖書の記録する創世記は歴史の根源的な創造のあり方を「歴史の出来事」として証示している。そもそも神話の意味は、狭い意味で神話は神々の縁起、即ち成り立ちの物語である。あるいは神々の超自然的な存在に関する物語ともいえるのであって、文学類型上の定義であるといわれている。神話の生まれる背景は、多神教の世界であるといえる。聖書(旧約)では、神々の系譜(縁起)はないのである。

創造の記録にはバビロンの創造神話に通じているともいわれるが、もしそうであったとしても旧約聖書では選ばれた民としての唯一神信仰においてバビロンの創造神話の性格を変質させているのである。本来の文脈からではなく、表現上の形式から離れ、唯一神の本質を表すものである。選民によって歴史的出来事として啓示されたのである。

全ての創造の根源は、神の創造に始まり、神の「ことば」によって全てのものが創造されたと啓示されているのである。宗教史的な進化の産物ではなく、全能の神が創造されたことを啓示されている。そして、新約聖書は「初めに言があった。“言”は神と共にあった。“言”は神であった。この“言”は初めに神と共にあった。すべてのものはこれによってできた。できたもののうち一つとしてこれによらないものはなかった。」(ヨハネ1:1-3)と記している。

ヘブル人への手紙は、「御子によってもろもろの世界を造られた。御子は神の栄光の輝きであり、神の本質の真の姿であって、その力ある“言葉”をもって万物を保っておられる。」(ヘブル1:2-3)といっている。三位にして一体なる神は、永遠の存在として三位一体である。創造において、地に「神の霊」がおおい、「神の言」が創造の契機と形成となったと創世記は記している。

そして、「人は神の“かたち”に創造され・・・・・命の息をその鼻に吹き入れられて“生きた者”となった。」(創世記1:27,2:7)人は神の命の息をルーハーされる事によって、即ち神の聖霊を吹き入れられて人として存在するものとなったのである。そして、人の堕罪による神との交わりの断絶と、その回復としての救済の出来事において「神は愛」である事が証示された。選民の出来事と「時の満ちるに及ぶ」(ガラテヤ4:4)

ここでの満ちる、プレローマは、キリストの出来事のもたらす終末論的な救いの時をさしており、パウロが「愛は律法を完成する」(ローマ13:10)において示している様にこのプレローマは「愛」が律法を成就するとする。「愛」とはキリストの十字架の贖罪であって、キリストの十字架の出来事こそ律法の要求を完全に満たす(プレローマ)ものである。神の救いの完全な成就を意味している。更に贖われた神の民のキリストの教会こそ終末的な神の国の成就と実現がプレローマ,満ち満ちているところとなる。

「この教会はキリストのからだであって、すべてのものを、すべてのもののうちに満たしているかたが、満ちみちているものにほかならない。」(エペソ1:23)キリストの出来事において、旧約の預言と律法がプレローマされたこと――満たされ、成就、完成したということ――は、ペンテコステの聖霊降臨においてキリストの教会、即ち新たな神の民の共同体としてのあり方の本質となったのである。

イエス・キリストの「出来事」、神の国の到来が成就されたこととなり、「終わりの時にわたしの霊をすべての人(主の名を呼び求める者は救われる)に注ごう。・・・」(使徒2:17)この事は、アブラハムの使命としての「地のすべてのやからはあなたによって祝福される」(創世記12:3)という原始における救済の約束が、ペンテコステにおいて成就しているのである。神の言、即ち、啓示は救済史の視点で構成され、正典がキリストの共同体(教会)によって制定され、「この書(聖書66巻)の預言の言葉を聞くすべての人々に対して、わたしは警告する。

もしこれに書き加える者があれば、神はその人にこの書に書かれている災難を加えられる。また、もしこの預言の書の言葉をとりのぞく者があれば、神はその人の受くべき分を、この書に書かれているいのちの木と聖なる都から取り除かれる。」(黙示22:18-19)預言をする事がイエス・キリストで完成し、それに加える事、除く事の必要がないということである。それでは現実における終末の「いまだ」と、イエス・キリストにおける十字架と復活における終末の「すでに」の間にあるキリストにおいての終末の成就は信仰によって現在となる。そして、全ての救われる人に聖霊が注がれ全ての人が預言をする。

「神の言葉」を語る。それは完成され、成就された使信、イエス・キリストの死と十字架と復活を預言する、即ち、宣教することである。「今はめぐみの時、見よ、今は救の日である」(コリントⅡ6:2)ペンテコステの日から恵みの時代となる、即ち聖霊がイエスの真理の御霊として(ヨハネ14:17)生けるキリスト、キリストの体、キリストの教会が完成された救いを宣教するものとしてたてられているといえる。

聖霊の思いを知るとは

キリストの教会の宣教の業、預言の働きは完成された救いと神の国を伝えることにある。聖霊の働きが宗教改革においてsola scriptura「聖書のみ」というローマ法王の教会の主権から救いの土台を「聖書のみ」に置く事に対峙して、正統主義が聖書の霊感と啓示を正典に制約し、一方では啓蒙的思想に対する論理的経緯から聖霊の業としての賜物の超自然性を聖書の時代の過去に閉じ込める事になる。神学潮流として、経験哲学や合理主義の啓蒙の思想は理神論となって全く霊の働き、超自然性の信仰のあり方を失う事になる。

「悟る」という認識は、聖霊の働きかけが、恵みとして語られる時、人は自らの内に与えられている霊性に反応し、受容することである。全人格的な霊的認識が呼び覚まされ、自覚するということができる。その契機が信仰である。その恵こそ、イエス・キリストであり、キリストの呼びかけが人のうちに失われていた霊性を回復し、父なる神との交わり、即ち、救いを理解するのである。

「知解せんために、われ信ず」と言うアンセルムスのテーゼは、人格の本質である知情意の知の欠落ではない。信仰において全人格的に知ることである。ルターが“信仰のみ”sola fideと言うとき、「信じる」と言う人間の行為としてではなく、「信仰」はあくまでも神の恵みの管として、それを受けることによって信仰は始まる。受ける、即ち、信頼することなしには信仰は人の内に実現しえない。「人間の思いは、その内にある人間の霊意外にだれが知っていようか。それと同じように神の思いも神の御霊意外には、知るものはない。」(コリントⅠ2:11)

パウロは、コリントⅠの手紙の2章で、霊の働きとしての神の啓示は神の行為である事から、肉なる人間には認識が不可能といっているようであるが、聖書のメッセージに出会うとき聖霊は聞く人の内に働き、聴く人が受容する、即ち信じる時に人の霊性は真実の神との交わりを回復する。現実には神から離れた人間も、神の被造物であり、神の霊の息を吹き入れられて存在する、生きる(創2:7)存在として、人格的に神のことば、神の霊のことを「悟る」体験できる存在であると言える。

人間は霊的存在である。知情意をもった霊的存在である。生きる事は認識への反応の拡大であるとすれば、知的理性は霊的存在として脱自的にならざるを得ない。霊なる真実の神との交わりのない脱自は、霊性の消失をたどる。それは知性と意思の宗教となる。一切の超自然性を否定し、理性によって理解できるものを実在とし、人間の道徳を実現する道具としての宗教となる。これがモダニズムの宗教と言える。

ルターは、理性的な所作としての神学的教理、即ち、義認や教会制度の不条理を問題意識として改革の出発としたのではない。敬虔な修道生活で、信仰の完成を求める苦行において魂の平安を得られず、苦悩する事から聖書のみことばの光を受け信仰による義認へと目覚めさせられるのであった。彼は、ドイツ神秘主義の「存在は神である」という教説に影響を受け、ルターは遍在される神は全能であるとし、全ての存在や歴史事象に隠れて神は愛なるお方として働き、業をなされる方としてとらえるのである。

正に生けるダイナミックな霊的現在の神を信じているのである。この霊的な力が宗教改革という変化をなしえたといえる。
人は信じる信仰によって生ける神を経験できる存在であり、聖霊によって常にインマヌエルなる主と共に生きるものであると言える。聖霊に導かれる生活とは生けるキリストと共に生きることである。

生けるキリストと聖霊の働き

イエス・キリストにおいて終末の救済と、神の国の成就と完成がされ、神が聖であり、愛である事が啓示されたのである。聖霊の働きは、キリストの「出来事」の宣教の霊として、キリストの教会に委ねられた。キリストの贖罪は、終末の救いの成就として「すでに」完成された約束であって、「いまだ」現実には様々な苦難があり、罪の現実にあることは正に一日一日がイエス・キリストにゆるされ続ける事の中でキリストの身丈に達するまで成長を目指す事になる。

旧約ではメシヤとは何であるかを示し、新約ではメシヤは誰であるのかを告げる。「神はむかしは(旧約時代)預言者たちにより、いろいろな時に、いろいろな方法で、先祖たち(選民、ユダヤ民族)に語られたが、この終わりの時には、御子によってわたしたちに語られたのである。」(ヘブル1:1-2)旧約において神は選民を通して救済を預言され、神の霊はその時、その時の「出来事」においてメシヤの来臨と御国の回復を証示している。

そして、「時満ちて」イエス・キリストの降誕と十字架、そして復活の「出来事」を通して終末の救済と御国の回復が成就される。「時が満ちる」(マルコ1:15)「時が満ちるにおよんで」(ガラテヤ4:4)とは神の救済の最後の時、完成と成就の時が宣言されている。

聖霊はあらゆる生活の座でイエス・キリストが救い主である事を証示されているのである。生けるキリストは、教会に霊の賜物を委ね、信じる者が支えられ、育成され、成長し、キリストを宣教するために備えられている。パウロは「わたしの言葉もわたしの宣教も、巧みな知恵の言葉によらないで、霊と力との証明によったのである。それは、あなたがたの信仰が人の知恵によらないで、神の力によるものとなるためであった。」(コリントⅠ2:4-5)と言っている。

贖罪は神の国の勝利の宣言でもあり、希望である。このイエス・キリストの「出来事」が保証となって生けるキリストの証言として霊の賜物による預言があり、霊を見分け、病人を癒し、奇跡をもって確証される。聖霊の働きがダイナミックに生活で体験される事は、神の国の証しであり、又、イエス・キリストの十字架の言葉にあるのである。

今もキリストを信じる者を通して「生ける神」は聖霊を通してその業を表される。それは、イエスがキリストであることのメッセージ(ことば)であり、このイエス・キリストの十字架の言葉、即ち、福音の真理を示すもの、それを基準としているのである。全ての霊的経験は、聖書によって検証されて確かな使信を聞く事になる。「み霊はわれわれの主要な導き手である。

だが彼は全くわれわれの基準(ルール)ではない。聖霊ではなく、聖書こそそれによって聖霊がわれわれをあらゆる真理に導くルールなのである。み霊はそれ自身が全知なるものとして、われわれの“ガイド”であり、聖書はこの全知なるものによって用いられるわれわれの“ルール”と呼ぶことができよう。」と、ウエスレーは言っている。(スターキー「ウエスレーの聖霊論」)霊の証明は聖書による検証によってのみ神の霊としての使信をわれわれに与える事ができる。

信仰の告白と勝利の宣言

旧約を知らない異邦人は、自然と歴史と人生の中で神の言葉を聞く。しかし、イエス・キリストの「出来事」に出会って始めて真実の神に導かれる事になる。そして、旧約聖書において神の救いの歴史を知り、キリストによって新しく神の民とされている喜びを体験するのである。所与としての全ての存在、自然と環境の中で様々な出来事の中で聖霊に導かれる生となる。生けるイエス・キリストが常に共にいて完成された救いの約束として霊の力の証明をもって、御心を自覚させてくださる。

「神は神を愛する者たち、すなわちご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにしてくださることを、わたしたちは知っている。」(ローマ8:28)神に召されたキリスト者にとって、「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について感謝しなさい。」(テサロニケⅠ5:16-18)のことばが勝利の告白として生まれるのである。キリスト者にとって、み言葉の命令形Imprativeは、直説法Inndicativeであって、「いつも喜んでいるようにしてあげよう」「絶えず祈れるようにしてあげよう」「全てのことに感謝できるようにしてあげよう」という約束であることによる可能性である。

イエス・キリスト、しかも、十字架につけられたイエス・キリストを主と告白する事が全ての中心となり、全てとなる。「キリストを非人格化すれば聖書となり、聖書を人格化するとキリストになる」との真意は、正に聖書信仰と聖霊信仰が相互一体となり、共時的に体験されるところの生けるキリスト信仰である。「聖霊によらなければ、だれも“イエスは主である”と言うことができない」(コリントⅠ12:3)イエス・キリストと告白することは、十字架のもとにあって罪を悔い改める(懺悔)confiteriことであって、罪の赦しは「感謝すること」confiteriとなり、それは「賛美すること」confiteriに結びつくことになる。

confiteriはconfessionの語源である事から、イエス・キリストを告白することは、感謝が生まれ、賛美が生まれる。それは、神の恵みの業であり、恵みは聖霊の業である。聖霊によりて生きる事はキリストに生きることである。キリストに近づけば近づくほど、人は限りなく一つとなる。そこに一致が生まれ、生けるキリストの教会が生まれる。

「信仰の導き手であり、またその完成者であるイエスを仰ぎ見つつ走ろうではないか。」(ヘブル12:2)

全てはイエス・キリストから始まり、終わる。彼はアルファであり、オメガである。

われわれは、イエスキリスト、しかも、十字架につけられたキリストを宣べ伝えるのである。

栄光主にあれ!




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