ペンテコステ信仰と聖書と啓示

廣瀬利男

2 啓示は完結されているのか

今日、カリスマペンテコステの教派においての特徴は、聖霊の賜物の働きを受け入れることによって起こる「預言」の問題である。「預言」は聖霊によって示され、聖霊によって語らされる「神の言」であると考えられている。「預言」は、また「啓示」によって起こるともいわれる。「啓示」は、神の言葉であるからである。今日、啓示という言葉の教会史的な概念理解が錯綜しているのである。日常的に「啓示」は今でもあるのか。

換言すれば「預言」はあるのかという問題である。カリスマペンテコスト教会では、霊の賜物としての「預言」を日常において経験することは一般的な経験である。その様態は公同の礼拝におけるメッセージとして、また日常生活での預言があり、メッセージ − 使信 −の形式であったり、個人や社会への先見的内容のものであったりする。

問題はそれが「啓示」であるのかどうか、また、聖書の「わたしは命じる。聖霊によって歩きなさい。もしわたしたちが御霊によって生きるのなら、また御霊によって進もうではないか」(ガラテヤ5:16,25)みことばの教えを認める立場にあるなら、聖霊の導きとしての「預言」の働きは当然受け入れられるべきことといえる。しかし、教会史に見る教会の伝統からは、聖書の正典の完結によって、「啓示」は完結されたといわれてきている。即ち、「啓示」は、現在には必要なく、聖書において「預言」は成就され、最早直接啓示としての預言はありえないという理解となっている。

アドバンストスクールでの佐布師講座記録「聖霊の神学」の内容についての公開質問状において、伝統的な保守的福音主義の聖霊観による、「預言」理解を巡って、問題提起がされている。聖書の正典の完結に対するペンテコステカリスマ信仰との齟齬の指摘である。「『啓示は教義学的にいって、今日、聖書啓示以外に無いということができるとできると』おっしゃっておられます。

また、初代教会に帰るが、ペンテコステ教会の特質であるが、これは啓示の問題があるから難しいとおっしゃり、初代教会へ帰ることに疑問を差し挟んでおられます。そして、当然の理論的帰結として、いわゆる預言,異言を軽視、あるいはできれば無視したいと望んでおられるように受取れますがいかがでしょうか。」J「歴史を通して『啓示』の存在は一貫しているのに、現代だけは存在しないというのは、納得できません。

現代は『啓示』がないという明確な聖書の主張があるのでしょうか。それとも、その主張は理神論的神学の主張なのでしょうか。」K以上の様な問いかけがなされている。保守的正統主義は、聖書の時代における超自然性は初代教会の出来事であって、今はないという観点にたっている。超自然現象としての奇跡とか、癒し、そして霊の賜物を否定することになる。「啓示」が聖書66巻に限定されて理解される時、ということは聖書を正典として「信仰の基準」に限定して理解するということである。「啓示」という言葉がこのような概念で理解される時、「啓示」は直接的な啓示としての聖霊の働きとしての「預言」が啓示といわれることを間違いとすることになる。もし、ペンテコステ派が、聖書信仰、即ち “聖書のみ”の原則に立つならば、今日的な霊の賜物としての「預言」「聖霊の導き」は、啓示―神の自己証示としての証言―であるが、あくまで「聖書の基準」、即ち、普遍的な基準に吟味され、規定されることになる。神の自己証示としての啓示は、ある前提によって規定し、概念化されてはならないといえる。

J佐々木師の佐布正義師への一般公開状p2
K前括書、一般公開状p6


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