ペンテコステ信仰と聖書と啓示

廣瀬利男

3 一般啓示、特別啓示

「啓示」即ち神の自己証示は、一般啓示と特別啓示に分けられる。啓蒙思想の思想潮流の反動で、超自然的神の行為としての啓示はバルトに代表される新正統主義では、啓示をキリストに限定して理解されてきた。一切の人間のアプリオリ(先験性)は認められない。イエス・キリストによる啓示によって、はじめて一般啓示としての自然、歴史、人生の全ての関わりにおいて啓示を認識するということになる。

人間は啓示を認識する可能性を否定していることになり、人間は神との関係を堕罪の結果失っているが、なお神の像の残滓を残しているが故に認識しうるとするバルトとブルンナーの論争は有名である。今日、ポストバルテイアンとして、パネンベルグは聖書学的裏づけを通して、普遍的啓示理解をグループ研究として「歴史としての啓示」に発表している。新正統主義神学が「歴史の外」に神の行為を位置付ける考えを退けて、歴史としての現実全体、即ち歴史の全過程は神が創造かつ統治し、それを通してご自身を啓示される神の世界であるとする。

一般啓示として、自然、歴史、人生(人間)をめぐって被造物を通して人間は神を認識しうるかという事については、「神について知りうるがらは、彼らには明らかであり、神がそれを彼らに明らかにされたのである。神の見えない性質、すなわち、神の永遠の力と神性とは、天地創造このかた、被造物において知られていて、明らかに認められるからである。」(ローマ1:19−20)「人々が熱心に追い求めて捜しさえすれば、神を見いだせるようにして下さった。事実、神はわれわれひとりびとりから遠く離れておいでになるのではない。われわれは神のうちに生き、動き、存在しているからである。」(使徒17:27−28)「もろもろの天は神の栄光をあらわし、大空はみ手のわざをしめす。」(詩19:1)啓示が歴史において間接的に証示されることは、創造の業を通して神の存在を啓示されることである。全ての被造物は、神の存在の証示、即ち隠れておられる方である、「話すことなく、語ることなく、その声も聞えないのに、その響きは全地にあまねく、その言葉は世界のはてにまで及ぶ。」(詩19:3−4 )その言葉は創造を意味している。

「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は初めに神と共にあった。すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった。」(ヨハネ1:1−3)ルターは好んで、「隠れておいでになる神」を語ったといわれる。それは、神の遍在性を明示しているのであって、全ての被造物が神の御手の業としての使信を語る事を意味している。「神のみまえには、あらわでない被造物はひとつもなく、すべてのものは、神の目には裸であり、あらわにされているのである。」(ヘブル4:13)神の啓示としての被造物とは、「総量の総体」という汎神的な神概念ではなく、「統一の根源」を意味する、神の遍在としてのメッセージ −使信―即ち、啓示を意味するといえる。

イスラエル民族は、神の選民の証示として「律法」を与えられ、律法を指導者としてキリストに連れて行く、福音に至らせる「養育掛」(ガラテヤ3:24)として備えられた。律法を知らない異邦人にとって聖書は「律法を持たない異邦人が、自然のままで、律法の命じる事を行うなら、たとい律法を持たなくても、彼らにとっては自分自身が律法なのである。

彼らは律法の要求がその心にしるされていることを現し、そのことを彼らの良心も共にあかしをして、その判断が互いにあるいは訴え、あるいは弁明し合うのである。」(ローマ2:14−15)といい、人の応答責任を明らかにしている。一般啓示において、神から離脱した堕罪性の故に、生かされている自然、環境の中で歴史や人生の虚無と不安に出会うことから神を求める事になる。それは、あくまで不確実で真実の神認識は蓋然的でしかない。

この意味で異邦人社会の人々は、その文化や歴史と人生は全てイエス・キリスト、即ち福音への手引きであり、「養育掛」といえる。ブルトマンは、その意味で旧約聖書の不要に立つが、クルマンはキリストに出会うことによって、キリストの救拯史的神の摂理を知り、旧約において神の計画と真実の根源的神との出会いを表明している。


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