ペンテコステ信仰と聖書と啓示

廣瀬利男

Hこのような言葉が続く。19世紀の文献学は、人間の著作として聖書の真正性を問題にしモーセ五書は諸伝承の集合であってモーセの著作性の信憑性を問うことなる。それが高等批評学である。宗教史学派から,伝承史、様式史、編集史,社会学,文化学的解釈にいたり聖書の霊感の否定、正典性の否定、聖書の権威の喪失となり、史的イエスの限りなき否定となる。

そして物語解釈にいたって,完全に読者主体の読み込みとなり,せいぜい現代人の道徳的感話になってしまうことになる。そして,現在,心ある神学者からは「キリスト教,特に,プロテスタンテイズムの終焉」が叫ばれている。われわれは,神学的前提として,広く神学の学的性質,思想的変遷をしっかり学ぶ事は当為であるといえる。特に,ペンテコステ派のよって立つ神学的前提と基盤を自己理解する事が重要である。歴史的聖書批評学を学ぶ事と,歴史的聖書批評学の学的方法と前提を受け入れる事とは全く違うことを理解しておく必要がある。

2.神学的基盤としての聖書信仰と聖霊信仰

現実にはペンテコステ信仰の神学の否定は福音のロゴス性を無視した聖霊経験の主張となり,極端な主観主義となり混乱を生み出すことになってきている。それは、聖書の正典性と直接啓示の優位性という問題であって、すでに、モンタヌス運動や熱狂主義運動において批判された問題である。ペンテコステ派での課題は一世紀の宣教経過を踏まえ、神学的所作である信仰の自己反省、批判による自己理解をしなければならないし、ペンテコステ運動は組織化される課程で“信仰の告白”として神学的に問いかけてきてはいる。聖書の基本的教理と20世紀の教会史の伝統をペンテコステの聖霊降臨に始まる原始教会の視点から真実の神学、すなわち「信仰の告白」を確立することが求められている。

ペンテコステ運動の基本は聖書信仰と聖霊信仰にシフトしている信仰理解であり、直接的な霊的経験、すなわち神体験を重んじるといえる。ネシーフなる神、今、生ける神として、常に、共同される神経験である。それが、聖書の証言する神であり、聖書に一貫して流れる証言であるのである。マクグラスはペンテコスタリズムの人々を引き付ける宣教の特質について二つ上げ、その一つは神を直接、しかも直ちに経験することを強調すると言っている。そして、次に、効果的に文化的落差を超えられる言語や伝達形式を用いていると言う。Iそれは宣教の現象的な面での洞察であるが、ペンテコスタリズムが伝える福音が何故その様になるのかは問われていない。

ペンテコスタズムは端的に言えば教会思想史を越えて、 聖書を前提なしにそのまま“聴く”ことからはじめると言える。そのことがすべての信仰と神学的基本となっているのである。ペンテコスタリズムが無神学、無歴史的であるといわれる時に、それは神学が無いのではなく、正に、キリスト教が現代社会に人を人として生かし切れない神学ではなく、人を生かし社会を変革させる福音としての神学を言っているのである。そこで聖霊経験が意味する聖書の信仰の理解とは何かが構築されてくると言える。

H 前括書「原始キリスト教」p105
I 前括書「キリスト教の将来」p155


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