ペンテコステ信仰と聖書と啓示

廣瀬利男

(1) 基本的な啓示の理解

1 啓示とは何か

 キリスト教信仰は、啓示の理解によって立ちも倒れもし、啓示の喪失と同時に、キリスト教的敬虔と、キリスト教会の基盤の喪失へ向かうとさえいわれている。啓示という概念そのものがキリスト教信仰の独自性を最も包括的、かつ深遠に表現するものであって、啓示の理解こそ、キリスト教の信仰の基礎であるといえる。神が神自ら人に知らしめる行為といえる。超自然的存在としての神を、有限なる人間が認識することは、可能であるのかが問われることになる。啓示とは「神の言葉」であるといわれる時、言葉はあくまで人間の言葉であることから、神の啓示の言葉は人間の言葉によって人に認識されることになる。

人は果たして「神の言葉」を認識できるのであろうか。啓蒙思想の流れの中で、人間の主体的な理性による客観的思考は超自然的神を忌避するようになってきたといえる。人は果たして「神の言葉」を信仰の書として認識できるのか、また、キリスト教信仰が神との人格的経験なしに成り立つのか、という課題に対応して台頭してきたのが、新正統主義といえる。新正統主義の神学が「神の言葉の神学」といわれ、また、「啓示の神学」といわれることによってあらわされている。「啓示」の問題は、「霊感」の問題であって、聖書の権威、即ち聖書の「正典性」の問題である。

モダンにおいて学問の基本的方法は、スキエンテイアScientia(知識)、即ちSciences「科学」に基本を置くことになる。客観的に証明できないことは、実在を認めないという前提から歴史的実証主義となる。「啓示」の書としての聖書の批判的歴史的研究は、超自然性は否定され、「啓示」の性格は主観的人間経験の中で理解されることになる。宗教と、その経験は人間の意識の投影、即ち「願望の所産」の結果になる。(フオイエルバッハ。フロイド)また、霊性のない理性と意思の宗教は、道徳的宗教となり、聖書は信仰の神の言―啓示の書ではなく、道徳の道具となる。(カント)新正統主義神学、特にバルトに代表される啓示の理解は、歴史を通しての啓示として特徴付けられる。

神は歴史を通して自己を証示されてきたとするが、歴史的出来事を啓示と同一視せず、啓示をもたらす手段であるとする。啓示は歴史の出来事として認識されないし、歴史の出来事は啓示を包んでいる器である。聖書を啓示した記録というように理解されることがあるが、厳密には聖書は啓示があったという記録であって、啓示が再度おこるとする約束であるいうのである。聖書が読まれる時、読む人が人格的に神の現臨に出会って、そこで聖書の言葉が啓示される、即ち神の言葉となるということである。

バルトによれば、聖書の言葉は人間の言葉であり、客観的に神の言とはいえないし、人間の言葉である故に誤りがあることになる。啓示には誤りはないが、人間(罪ある有限者)を通して受取られ、記録される時、必然的に誤る可能性があることになる。故に聖書の言葉が信仰によって受け入れられる時に、聖霊が介入されることによって、神の言葉となるというのである。人間の立場からは、キリストの臨在によるキリスト体験であるといえるのである。

それに対して、保守的福音主義の立場でいえば、記録された文書としての聖書を神の言、啓示とするのである。啓示としての聖書の言葉は、霊感によってその権威が裏づけられることになる。聖書の原著者は、神の言としての啓示を記述する時、誤りがないように、聖霊によって記録されるのである。


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