「聖書的説教とは」
 
アドバンストスクール公開講座〈説教の前提U〉
聖書解釈と文献批評の今日的課題
発題 廣瀬利男


  1.聖書的説教とは―「聖書的」の意味することは何か



1.聖書的説教とは―「聖書的」の意味することは何か。

説教者(私)の課題としての聖書解釈と文献批評学
 ブルトマンの著作との出会い。理性と信仰の問題。アンセルムスの言葉。バルトの思想。啓示の理解。クルマンの「キリストと時」との出会い。渡辺善太との出会い「聖書的説教とは」。聖書正典性の神学とペンテコステ信仰の本質−聖書信仰と聖霊信仰。
 保守的福音派の流れの神学教育を受けたものにとって文献批評学に基づく思想表現はきわめて深刻な信仰的問題となる。

今日的な保守的福音派の聖書理解の現状。
「福音派の保守的な人々の中に聖書の無謬性という根本主義的な教理を信奉している人など、もはや存在しないということが明らかになった。1976年、ハロルド・リンゼルは、自らの著書(聖書のための戦い)において福音派の主導的な学校の一部で一般的であった〔限定的無語性〕という教えを取り上げ、その正しさを証明している。アッセンブリーズ・オブ・ゴッドは、福音主義の共同体に属する群れとして、変わりゆく教理的、文化的基準に対し、当時広範囲に存在していた懸念を有していた」。(“ペンテコステ・リバイバル”E.ブラムホッファー著p93)

「聖書に関して、無謬性という表現と、無誤性という表現とが使われるが、前者は主に聖書の内容と権威について用いられるに比し、後者は聖書記述面で誤りがないという意味に用いられる。新福音主義の立場から言えば、聖書は無謬であるが、厳密な意味では無誤ではないということになるのである。この福音主義の立場を巡って、福音主義陣営の中で一応の決着を見たのが、福音派の学者300人が集まり討議した『シカゴ声明』においてである。『聖書はその全体において誤りがない。どんな偽り、欺瞞、欺きからも守られている。われわれは、聖書の無謬性と無誤性とは、霊的な、宗教的あるいは救済的な主題のみに限定されるという考えを否定する。それは例外なく歴史や科学の分野においても主張しうるのである』。」(講壇32号「聖書信仰の今日的課題」菊地和博著p56)
    「真の意味で、無誤性は無謬性という大きな問題の一部である。無謬性は無誤性と同義に使用されることがかったが、現在では一部の別の意味をもつ語として用いられている。つまり、聖書は事実に即した記述という点では必ずしも正確なものではないが、神の目的を達成するという意味で使われることもある」。(エリクソン著「キリスト教神学」p281)
「無誤性は、厳密な意味では原典のみに適用される」。(同p302)

「限定的無誤性(Limited inerrancy)。この説も、救いの教理に関する記述において、聖書は誤りがなく、無謬であると見る。しかし、非経験的な啓示された事柄と、経験的な自然的な記述とを、明確に区別する。聖書における科学的、歴史的記述は、それが記された時代に一般的だった理解を反映している。聖書記者たちは時代的制約の中にいた。記者たちは啓示と霊感を受けても、通常以上の知識が与えられたわけではなかった。神は彼らに科学や歴史を啓示したわけではないのである。その結果として、聖書に科学的、歴史的領域において誤りと認められる記述があるとしても、それは当然である。しかし、これはたいした問題ではない。聖書は科学や歴史を教えるために書かれたわけではないからである。聖書は与えられた目的に関しては、十分に正しく、誤りがないのである」。(同p283)   レジュメp8「正統主義の正典観」の項参照。

「われわれはここで、現代思想をどう受け取るかという思想上の問題に直面されているのであるが、同時に、現代の課題を負おうとするキリスト教会の宣教の問題、あるいはより身近なところで起こっている、教会や教会学校の礼拝説教が部外者たる現代人に、悲なしいかな殆どまったくとどかないという問題に直面しているのである。神学ならびに新約聖書解釈に対するこうした批判は根本的かつ全的なものであり、近代主義の超克をカール・バルトに任せてきた怠慢もさることながら、神学的思考の枠組みそのものの解体を含む根源的再検討を迫るものであるといえよう。」(“聖書解釈の歴史U”木田献一著P234)





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