「聖書的説教とは」
 
アドバンストスクール公開講座〈説教の前提Ⅱ〉
聖書解釈と文献批評の今日的課題
発題 廣瀬利男


終わりに
2. 聖書の正典性とペンテコステ教会の聖霊信仰



 2.聖書正典性とペンテコステ教会の聖霊信仰

 宗教改革における信仰原理が「聖書のみ」におかれたことは、カトリック教会の信仰原理である「教会の権威」に対する聖書による批判であった。そこでは、教会の権威は歴史的使徒継承としての法皇にもと付く伝承と聖書にあった。それは「書かれた正典」と「書かれざる正典」の問題であって、おのずから「聖書のみ」の信仰原理は、書かれた聖書の厳密な正典性の確立に至り、その聖書を解釈する教会の権威は「万人祭司説」の原理によって個々人の直接的解釈原理に帰結する。宗教改革は教会(カトリック)の権威に対して聖書を対峙させることになる。教会の権威としての法皇に対して「聖書」が唯一の規準、即ち権威となる。
ここで二つのことが問題となる。一つは、信仰基準が正典としての「聖書」に限定されることであり、二つ目は、その聖書を「解釈する」ものの権威をどこに置くのかということである。
まず、聖書を「解釈する」点を考察すると、聖書は解釈されて理解されはじめて信仰の規準となる。宗教改革の聖書解釈原理は「万人祭司説」によって教会のヒエラルキーを否定することから個人の直接解釈原理となる。そこにでは、人間の個別的主体的立場の視点として公同的な教会の形成が困難になる要因があることになる。プロテスタントの避けがたい分派発生の要因がそこにあるといえる。ルターは、聖書解釈の権威(責任)を神学校教授団にあるとした。しかし、現実に神学の多様化と世俗の体制とも絡み合いながら分裂して経緯してきている。
一方、宗教改革によってカトリック教会の最終的権威としての教皇の権威、即ち、教会の権威について内部改革が先鋭化する。その問題は「聖書の解釈権」の問題であった。「トリエント会議は聖書の独占的権威の原理を拒絶したのである。聖書主義の原理の貫徹されるところでは、聖書解釈する資格を持つのは誰かという問いが提起される。トリエント会議はこの問いに対し、聖なるローマ教会のみが聖書を解釈する権利をもつという明確な答えを与えた」。(テイリッヒ思想史Ⅰ )カトリック教会では使徒継承の問題は、ニカヤ会議(324年)で司教による公会議が教会の決定権として位置付けられ、以後教会制度が確立して、教皇の権威も公会議の決定権(権威)に基礎を置いた。宗教改革以降両者の教会観の根本的相違から鮮明な「法皇無謬説」が成立したのは第一バチカン会議(1870年)である。ここでは教会が聖書に優先することになる。
新旧両派の相克の経緯を理解しながら、なを、プロテスタントの聖書解釈原理での個人の聖書解釈から起こる隔ての壁は聖書の正典性の「証しするキリスト」によってその公同性の結集の論理的必然性を確認した。個々が聖書によって「聖書の証しするキリスト」に出会い、キリストを理解するとき、個々人はキリストと一つになる。個々人がキリストに近づけば近づくほど、個々はキリストにあって近づき、一つになる。そこに、キリストの公同なる教会が形成される必然性が生まれなければならないことになる。
また、もう一つの課題は「聖書のみ」が信仰の権威の基礎として聖書の霊感と無謬が宗教改革後の経緯の中で正統主義の聖書観となることにある。「聖書のみ」の原則が、教会史において66巻の正典として厳密に信条として確立するのはウエストミュンスター信条の成立によるのであるが、その正典理解は啓示の完結であって、聖書の記録する教会の形成プロセスの霊的カリスマのダイナミックスは聖書の記録する原始キリストの時代で収束するという理解になる。神学的にはカルビンの栄光の神学の観点から自然創造の完結は、完成された自然が奇跡によって否定されるとする論理である。啓蒙思想時代を通して理性を基本とする実証的、帰納的批判によって聖書は伝承と神話の文献理解となり現実的には超自然的な出来事を看過することになる。正統主義神学も信条の承認的信仰に堕し、理神論的影響の流れの中で超自然的な事柄は理性で説明する可能性をたどる。現実の生の中では一切の霊感を始め、直接的な聖霊の働きを認めることなく経緯してきた。
原始キリスト教時代での霊の賜物の働きはその時代に終焉したのであろうか。キリスト教史を見ても教会制度が形骸化するときに必ず、霊的な信仰のリニューアルが台頭する。2世紀にはモンタヌス運動、宗教改革で「聖霊のみ」「信仰のみ」は信仰と教会の形骸化への批判から生起し、真実にルターの改革原理を徹底したのはミュンツアーの熱狂主義であった。そのような現象に共通するのは個人の霊感と啓示の問題であった。啓示、即ち、「神の言葉」として個人の預言やメッセージが聖書と並ぶのであろうかというものである。ルターは聖書に付け加えんとする「霊の言葉」を批判したのである。モンタヌスの時代において正典の確立がなされていなくても、初代教会の諸書が信仰規準をすでに持って伝承されていたために、歴史はモンタヌスの霊の言葉を教会の規準とは認めなかった。
このことからも現代におけるペンテコステ運動において聖書の記録する使徒行伝の2章におけるペンテコステの日の異言現象や聖霊の賜物の現れが経験され、そこでの様々な聖霊の働きをどのように理解するのかが問われる。
新正統主義神学のバルトは「人の言葉」としての聖書は、聖霊が人に臨むとき聖書は「神の言葉になる」という。ペンテコステ運動での聖書と聖霊経験はどのように理解されるのであろうか。聖書正典66巻は本来的に霊感されている。霊感されている正典としての神の言葉は、人が出会うとき聖書を通して神の言葉として迫り、失われている人の内なる霊的虚無を、キリストの霊が啓発し、再生の霊として全ったく新しい存在にする。聖書の「神の言葉」と「キリストの霊」が、人に迫り回心へと導くといえる。
使徒行伝の1勝の8節に言われる「聖霊のバプテスマ」は「わたしの証人」にするという。そこでは宣教の力の賦与の経験である。
新生における神の言葉の迫りは、「聴く」ことによる信仰(ロマ10:17)であり、過ぎし日の出来事を聞くことにより信じる経験である。「聖霊がくだる」(使徒1:8)聖霊のバプテスマの経験は、「証人となる」経験、それは「見る」ことによる経験である。聴力よりの情報でなく、言葉が見えるようになり、目で確認する、確信することを意味する。「聴く」ことは間接であり、「見る」ことは直接であり、事実としての確かな「力」としての情報となる。十字架の主、復活の主が共時的に迫り、語りかけられる経験を意味する。時代や、歴史、伝統、環境も違う、あのイスラエルでの十字架の出来事の「十字架の言葉」を直接聴く経験といえる。それは、また、一回的に、決定的にイエス・キリストの出来事が生起した「事実」との出会いを意味する。「わたしとしては、自分の見たこと聞いたことを、語らないわけにはいかない」(使徒4:20)という経験でもある。そのキリストの時点から、環境も、文化も伝統も時代も違う、現在の今に立ってキリストを証言するメッセージが、即ち、予言であり、説教である。そこで、インマヌエルなる主は、聖霊によって共存の証をされる。
旧約聖書に一貫してイスラエルに語られ、現れる神は、ネシーフ(生ける)なる主である。神は聖と愛の本質において聖なる義を現し、裁きに対して愛による救いを歴史に啓示して、人類に語り、迫られる救拯の神である。聖霊の働きとしてのカリスマの賜物は、キリストの人格とその業を現実に現してくださる証の出来事である。だからこそ、過ちの多い人間の現実に現されるすべての教会のカリスマの業と言葉が「キリスト証言の正典」としての「聖書を調べ」(使徒17:11)「吟味する」(Ⅰコリント14:29)ことが不可欠となる。
聖書が証言する真理の光―キリスト証言―から逸脱して聖書解釈は成立しない。(詩篇119:105.ヨハネ1:4、9)
ペンテコステ教会は「言葉」と「聖霊」、「教え」と「いのち」、「理性」と「精神」が一つに統合されている方として、今、現在にキリストを「生ける神」として証しすることになる。
「聖書信仰」なしに「聖霊信仰」は主観的経験的になり、「聖霊信仰」なしに「聖書信仰」は命のない形骸化した信仰になるか、道徳実現の道具に終わる。
わたしたちは「聖書は誤りなき神の言葉であって、信仰と生活の唯一の基準である」と告白する。


 聖書正典性と救拯史理解に基づく解釈の鍵
* 時の中心としてのキリストの福音的解釈  ImperativeとIndicative
* キリストの成就と終末的解釈  「すでに」と「いまだ」

 ケース・スタデイ ロマ書12章1-2節の解釈と説教
① 霊的礼拝 神に喜ばれる。ロギコス ラトレイア、道理にかなう。神が嘉(よみ)する。御心にかなう。
② この世と妥協するな。 からだを生きた聖なる供え物。神のものとしての献身。
③ この不可能な命令(Imperative)はキリストによって約束(Indicative直説法)されているからできる。
④ ペンテコステの受霊は「快楽原理」からの解放である。所有物の完全放棄がされた。
⑤ それは、キリストの「謙虚」ケノーシスの共時的体験。異言の現象の意義―自我の聖別、幼児退行現象。聖霊の主体において実現せられる。そこに主に喜ばれる信仰の実が証しされる。




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