「聖書的説教とは」
 
アドバンストスクール公開講座〈説教の前提U〉
聖書解釈と文献批評の今日的課題
発題 廣瀬利男


終わりに
1. 聖書解釈における教会と正典としての聖書の相関


 
 1.聖書解釈における教会と正典としての聖書の相関

 教会が聖書を結集した。しかし、聖書は結集者−教会を規制するものとなる。教会はそれを「正典」としたときに、それを解体しようとしても解体することができないものとなった。聖書は正典であるがゆえに教会から離れてはその存在は考えられない本質を持ち、それからはなれて理解されることは不可能であり、教会なしに存在はなく、教会なしに自己主張すれば、自己そのものを解消するよりないというあり方である。両者は不可避的に一つの相克関係にあることになる。
この相克関係は、他を否定するのは、他を生かすことになり、他を生かすことによってのみ、自己存在の意味を明らかにする。教会は聖書によらなければ、自己のうちに霊性を育み得ないし、体外的には、神の言葉を聞かせる契機を与え得ない。そして、聖書は教会にその存在の起源があり、教会に正典的形態を負うのである。この相克関係は相互に生かしめる関係にほかならない。
教会は聖書に対して歴史形態的保持者であり、聖書は教会に対して神学的信仰的規定者となっている。この関係の消滅は、聖書も教会もともに存在自身を解消することを意味する。
その理由は、聖書と教会が本質的に指示せざるを得ないものが同一であるからである。それは両者の存在それ自身がそこに始源を持ち、その根拠となるもの、即ち、教会の首であり、聖書の証言対象である生けるキリストご自身であるからである。聖書の正典としての本質を明らかにすることは教会を教会たらしめることである。教会は、聖書を問うことなしにはなく、聖書は教会を問うことなくして相互の存在はない。しかし、相互他者を問う場合大きな問いに差異がある。教会について問う時、聖書について問うのは神学的信仰的問いであるが、聖書について問う時は、教会に問うのは歴史的形態的の問いであって、この二つの間には無限の差異と質的断絶がある。教会はそれ自身の本質を解明しようとする場合、聖書の正典性の究明が求められ、そこに聖書正典論の根拠があり、意義がある。
聖書は教会を通して世界(この世)に与えられている一巻の書物である。それは一つの宗教古典の書物ともいえる。世界はそれ自身の立場(学術的)から研究してきている面がある。その研究の基礎は自然的理性的であり、その方法は歴史的文献的であって、批評的である。これに教会が抗議し、規制する立場でない。しかし、教会がこれを是認し、肯定しなければならないという意味にはならない。聖書は教会が歴史において結集し、自己の正典としていることにおいて、聖書研究の特殊的な性格を闡明にし、主張しなければならない。世界(この世)の聖書研究(歴史的文献批評研究)を否定し、自己の聖書研究を主張するだけではその責任は果たされたとはいえない。一つを否定して他を主張して、両者をつなぐべき論理が教会によって立てられることが肝要である。そのときにこそ教会が聖書が自己の正典であり、教会が聖書を解釈して、理解されなければならないことになり得るのである。そこに正典論の意義と価値がある。
そして、聖書の使命は世界(この世)への宣教であり、教会はその任務を委託されている。だからこそ、最大の責務は、世界と教会とを非連続的に連続せしめる「橋」を建設することにある。この橋は「入り込む」ためのものであり、「帰り行く」ためのものではない。この橋は自然神学の橋であってはならない。この橋こそ聖書の正典的理解と解釈によって与えられることができるといえる。
宗教改革において「聖書のみ」の原理が確立され、聖書の正典性の究明こそがプロテスタントの教会のよって立つ本質的課題であり責任となる。一方、個人の確証的信仰の経緯から必然的に聖書のある部分において神の言葉を聴き、その人の信仰の根拠を与えられることになる。そのみ言葉の根拠に立ち、信仰の絶対性を確信するときに妥協できないものとなる。プロテスタンテイズムの信仰的必然性としての固有の排外性があり、決してそれは悪であるのではなく聖書が要請する本然的態度であると言える。「たといわたしたちであろうと、天からの御使いであろうと、わたしたちが宣べ伝えたことに反することをあなたがたに宣べ伝えるなら、その人はのろわれるべきである」。(ガラテヤ1:8)といわれ、「たしかに、あなたがたの中に本当のものが明らかにされるためには、分派もなければなるまい」。(コリントT、11:19)と聖書は記しているのである。しかし、聖書は一方では、正典としての公同性をもっている。聖書を信ずるといい、聖書において神の言葉を聴くものは、聖書の公同性を信じ、これに立つものでなけねばならない。そこで、聖書を信じるものは聖書の一部分において信仰に立ちながら、一方では、聖書全体において、その公同性に立たせられることになる。聖書の一部分に立つ彼は聖書全体の前に立つことになり、そこから避けることも逃れることもできない。そこに神の言葉、正典としての「全体の聖書」においてより高い信仰の止揚点、一致を見いだすことになる。ここにプロテスタント的真実の融合と調和、一致がある。これが聖書の正典的理解の与える分裂と一致の関係であり、教会のあり方の原則となる。
この宗教改革の聖書信仰原理は聖書を神の言葉、正典性として受け取り、理解するときに可能となる。聖書の正典的理解はキリスト教会にとって不可避的責任であり、絶対的責任といえる。




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