「聖書的説教とは」
 
アドバンストスクール公開講座〈説教の前提U〉
聖書解釈と文献批評の今日的課題
発題 廣瀬利男


9.正典聖書を統一する基礎



9.正典聖書を統一する基礎

  1)聖書はキリストを「証言するもの」であるといわれるとき、そこには必然的関連として「証言せられるもの」としてのキリスト、「証言せしむるもの」としての聖霊がある。聖書の現存は、証言の性格が示すようにその対象のためである。その存在の一切はこの対象にかかっている。「証言せられる」が語られる理由があり、「証言するもの」の根源がある。「証言するもの」が「証言するもの」になる根源こそは聖霊である。
聖霊の根本的な働きはキリストを証しすることにほかならない。「わたしが父のみもとからあなた方に使わそうとしている助け主、即ち、父のみもとから来る真理の御霊がくだる時、それはわたしについてあかしをするであろう」。(ヨハネ15:26)といわれ、また、「聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』と言うことはできない」(Tコリント12:3)。聖霊はキリストの原証言者として人間を媒介者として用いることになる。「ただ、聖霊があなた方にくだる時、あなたがたは力を受けて、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、さらに地のはてまで、わたしの証人となるであろう」(使徒行伝1:8)の言葉はこのことを意味することである。そこに聖書が「証言するもの」といわれる意味がある。

2)証言するもの(聖書)は証言せられるもの(キリスト)に対して「指示」の関係にありゆえに聖書はキリストを指示することの存在意義をもつ。そして、「証言するもの」は「証言せしむるもの」(聖霊)に対して「溯源」の関係にある。聖書は常に聖霊に溯源することによってのみ存在の根源を明らかにできる。この意味においてこの関係は同時不隔であって「証言するもの」としての聖書の全体を「統ぶるもの」である。この関係において聖書全体が(キリストを)「証言するもの」としてあるものである。ゆえに、聖書のキリスト証言性を語るときにはこの指示性と溯源性との関係において考えることなしに真実に「キリスト証言」としての聖書を語ることにはならない。
3)聖書が「証言するもの」であるとき、それ自体「人言性」において「証言せられるもの」を指示し、「証言せしむるもの」へ溯源することになり、そこには異質性から否定の関係にあることがわかる。それは、また、逆否定にもなるといえる。
人間の言葉は神について語ることに不充分である。それには二つの面でいえる。その一つは、人間の言葉は自然的生活から生じたものであって超自然との関係で生じたものでない。その二は、人間の言語が意味するものを意味することは不十分であって、「象徴的」性格を持っている。証言することは証言するものを指示するとき、指示するものを限定することになる。いわば指示するものはしている人の自己表現でしかなくなる。それが超越者なるキリストであれば厳密な意味では表現は不可能である。しかし、「証言せしむるもの」の超越者としての聖霊が証言せられるとき「証言されるもの」(キリスト)がキリスト像と「なる」ことになり、全体としての聖書の「自己をそれ自身において示すもの」なるキリストはこのような形でそこに「ある方」である。
聖書の指示性と溯源性が完全に統合的に表されるとき聖書を統合する原関係が明らかになってくる。これは聖霊は「イエスの霊」(使徒行伝16:7.ガラテヤ4:6)または「キリストの霊」(ロマ8:9)として指示せられるものと指示せしむるものとが一つであることを示すことになり、この関係こそ全体としての証言する聖書である。
この関係は聖書と聖書を読むものと統一する復活のキリストの霊の働きによってのみ起こる出来事である。「イエスは、聖書を悟らせるために彼らの心を開いて言われた」(ルカ24:45)とはこれを例証することになる。そこに聖書の全体が「神の言葉」として現在することになる。



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