「聖書的説教とは」
 
アドバンストスクール公開講座〈説教の前提U〉
聖書解釈と文献批評の今日的課題
発題 廣瀬利男


8.聖書正典性の神学的克服



8.聖書正典性の神学的克服  

1)キリストを証言する聖書
聖書は一巻の書であり、一つのまとまった全体であり統一的である。聖書を一つの書物、一つの全体として知らんとするには「聖書とは何か」という問いであり、それを聖書自身に問わなければならない。それは新約聖書の著者の旧約聖書観から見ることができる。新約の著者は旧約を神言として、また、正典として受け止める。そこでは旧約聖書は全体的に、統一的であることにおいて把握されている。
聖書とは何かという問いに「この聖書はわたしについてあかしするものでのである」(ヨハネ5:39)というヨハネによる福音書の言葉は答えている。また、テモテ第2の手紙3章15−17節に「また幼い時から、聖書に親しみ、それが、キリスト・イエスに対する進行によって救いにいたる知恵を、あなたに与えうる書物であることを知っている。聖書は、すべて霊感受けて書かれたものであって、人を教え、戒め、正しくし、義に導くのに有益である。それによって、神の人が、あらゆる良いわざに対して十分な準備ができて、完全にととのえられた者になるのである」といっている。
キリストについて「証しする」ものという言葉は旧約の聖書としての本質を捉えているといえる。そして、これは新約中の他の著者の、この一点を表現しようといているそれぞれの部分的表現を総括しているものである。使徒行伝が公的教会史いうべきものであり一貫してこの句で理解していることはよく知られている。
旧約書全体から「メシヤ預言」をキリストを預言とするにしても、そこにはわずかな部分でしかない。旧約書をキリスト預言という場合、それが新約的立場より見られたことであるかを見、新約書がいかなる意味で旧約書をキリスト証言としてみているかを問わねばならない。間接的には新約書で全体的であるが、直接的な部分は限られている。
第一に、「イエスの証は、すなわち預言の霊である」(黙示19:10)預言の霊によって語ることはイエスの証しすることの意味がある。この預言は厳密に旧約書の預言者をさしてはいない。ルカ24章の27節では「こういって、モーセやすべての預言者からはじめて、聖書全体にわたり、ご自身《キリスト》についてしるしてある事どもを、説明かされた」また、44節には「モーセの律法と預言書と詩篇とに、わたしについて書いてあることは必ずことごとく成就する」と記録している。そこで「イエスの霊は預言の霊なり」という言葉が、旧約全体の霊によるものとし、それはイエスの証しとして受け取られるということである。
第二に、「この救いについては、あなた方に対するめぐみのことを預言した預言者たちも、たえず求め、かつ、つぶさに調べた。彼らは自分のうちにいますキリストの霊がキリストの苦難とそれに続く栄光とを、あらかじめあかした時、それはいつの時、どんな場合をさしたのかを、調べたのである」(ペテロT、10−11)これによれば旧約の著者らはキリストについて彼らのうちにいますキリストの霊によって、これを証ししたのである。
第三には、ヨハネ伝8章56節の言葉である「あなたのがたの父アブラハムは、わたしのこの日を見ようとして楽しんでいた。そしてそれを見て喜んだ」。その意味は、この三つの言葉は、旧約の諸書がどういう意味でキリスト証言であるかを十分説明している。これは旧約の人が十字架のキリストを待望においてみており、現在のわれわれは想起としてそれを見るのである。アブラハムもわれわれも二千年ずつ隔てながら信仰において、聖霊によって「同時的」にキリストを見ていることになる。これが旧約聖書を全体的に「キリスト証言」とする新約的意義である。聖書のキリスト証言が、超越的にキリストを指示しつつ、根源的に聖霊にかえり行く性格持つことは、聖書中の一切の証言が、聖霊によってされるという意味を理解するとき、おのずと明らかになる。


2)キリスト証言としての聖書のあり方
聖書はキリストにつき「証言するもの」であり、その聖書が一つの全体として「いかなるあり方をもっているか」を問うことになる。現実に今、あるものは「自己をそれ自身において示すもの」であり、一つの全体の聖書が「それ自身において示す」ものは何かである。全体としての聖書あり方は、聖書が「証言するもの」であるということによって見出さるべきである。同時に、その部分が「証言するもの」であるということを意味する。その部分も全体もキリストを証言しているのである。キリスト像をそこに見るのである。キリスト像は全体として聖書に示されているとともに、その部分としての66巻にもそれぞれ示されていることになる。
そこでこのキリスト像を見る立場が問題となる。近い立場と遠い立場での間には多くのキリスト像として現れてくる。そこに角度からくる相違があることになる。全体としての聖書とは、「部分」を読むことによらなければならない。絵画のように見るのでなく、音楽のように部分を聴きながら、全体を聞き終わってその作品の全体が判るように「ある」(聖書のうちに)キリストが、わたしのうちに「ある」(なる)ようになる。私のうちに「理解」されることである。同時的にキリストを見ることを意味する。
聖書において「誰が語っているのか」ではなく「誰が語られているのか」に注意をするべきである。前者は「証言するもの」であり、後者は「証言せられるもの」である。前者の関心は聖書の著者の理解となり「全体として」の聖書の外に逸脱することになる。求めるべきは、全体としての聖書の示す「キリスト像」であり、全体としての聖書の「自己自身をそれ自身において示すもの」でなければならないといえる。
聖書に「何が語られているか」と問うことは「誰が語られているか」に答えるための二次的、補助的重要性を持つことになる。「何が語られているか」を深く広く問われる必要がある。それが問いへの先駆的となり、説明的となり、その誰かが浮き彫りとなるように用いられる。そのときはじめて聖書のキリスト像は、真に聖書のキリスト像として全体にあらわせられることになろう。聖書の語る「自己をそれ自身において示すもの」が鮮やかになるといえる。

3)聖書全体と部分のキリスト証言
聖書が全体的であるというとき、66巻の諸書は聖書の部分として全体としての聖書を映すとともに反映することと、それによってそれぞれの一つの聖書になっていることを意味している。それぞれが独自的で唯一的である。相互に隣の諸書とは異なり置き換えにきかないものとなっている。相互が断絶的でさえある。
しかし、それぞれが全体の部分たることにより全体のキリスト証言にあずかることにより、それぞれ一つのキリストについての「証言するもの」となっている。
それらの個性は、全体としてのキリスト証言によって否定せられるだけでなく、全体の聖書が示す超越者キリストよりの逆否定、最後の絶対否定を受けたのであり、それによって自己主張の個性を失い、証言者的個性を与えられたことになる。その証言においてキリストを確実に示されているとの立場に立つ。
66巻の部分としての書物が「証言する」とせられたのは書物としてこの性格を与えられたということである。ヨハネ伝5章39節の「聖書は、わたしについて証しするものである」という言葉は教会がこれを信仰によって受けたのである。
正統主義は個々の書に相違と矛盾を一応認識しながら、教義的立場から否定していると思われている。そこでは極限否定し、強いてこれを調和において見て強釈をし、極限的個性を忘却するということになる。
もう一つの見解は、諸書のキリストの相違を認め、聖書全体から4福音書に転じて、その史料に集中し、その背後に「史的イエス」を見出し、聖書の中心はキリストなりとする見方である。これは新しい聖書観にたつ立場で歴史批評学的方法を唯一の聖書研究とする人々である。この人々は66巻諸書相互に相互差異と相互矛盾を認めながら史料追求に逃れ道を発見し、この矛盾を「神学的解決」ではなく、「歴史的解消」に終わらせてしまっている根本的な弱点がある。
では、どのように説明されるべきか。聖書の証言するキリスト像を求めんとするとき、聖書の表裏にキリスト像が印刷されているわけではない。創世記から一つ一つのキリスト像を読み取り39巻旧約書には相違するキリスト像があることに気づく、必然的にその止揚点において旧約書のキリスト像が明らかになる。さらに、新約でも同じことがなされて新旧約書のキリストとして止揚され、そこに究極のキリスト像が表される。これが全体としての聖書の示すキリスト像であるといえる。これはわれわれのうちに起こる過程として説明される。しかし、人間の主観的創作という理解ではではなく、それはあくまでも全体としての聖書を最初に全体的に見たとき、そこで見た「全体的なるもの」が、潜在的に含んでいたものが、顕在的になった過程である。
聖書は聖書自身であるがままに読まれ、理解されて個人には生きた書物となる。聖書が、読む人にとって読み、理解されるときに、その過程を通し聖書の全体がキリストの証言であることを認識される。客観的存在である聖書の全体が、人の主観を媒介にして自己にかえることであって、ここに聖書の「ある」ということにいみがあり、聖書のキリストと言うことの意味がある。ここ以外に聖書も、キリストもないといえる。

4)キリスト証言の原秩序
全体としての聖書を全体として保っているものは何か。この全体によって証言せられる超越者によって全体とされている全体であるといえる。聖書の各部分はそれぞれのおかれた位置を持っている。ここでの「位置」は個々の部分のおかれている全体として部分の状況ではなく、全体としての66巻の聖書の基本的位置であって、相関におかれているということである。この相関、またはその置かれ方は、証言の「秩序」である。この秩序は位置によって、それ自身を具体的に示し、位置は秩序によってその相関を保つ。全体と部分とは位置と秩序とをもつが、それによって保たれ、この秩序のない所には全体もなく、部分もない。聖書は一つの全体であり「キリスト証言」であることは、そこの当然「秩序」があるべきである。この「秩序」は聖書66巻の「配列」においてそれ自身を示し、理論的には、この配列の示している「理念」においてそれ自身を表している。
新約聖書には明らかな意図と計画の下に結集せられ、聖書の「配列構造」を認められる。福音書、使徒行伝、パウロ書簡、公同書簡、黙示録の構造がある。福音書のルカが同じ著書で名を伏せてヨハネ福音書を挟んで配置されている意図は何であるのか。使徒行伝そのものが福音書と後なるパウロ書簡とを結び、これらの解釈を決定するという構造を見ることができる。聖書の中の諸書の配列が秩序を示す重要さを指摘しているのであって、これを史料的に解体する意味でないことを明記すべきである。聖書中の諸書の配列順序は、長い歴史的「動揺」を経て、その神学的「安定」に到達したというべきである。即ち、66巻の配列の神学的安定に到達し、はじめて聖書は一つの全体となり、秩序によって支えられた一つの統体となったのである。
次に、聖書の諸書の配列の語る「理念」おいて、あらわしている「秩序」とは何か。それは聖書全体の構造の「縦」の関係と「横」の関係としてあらわれている。「縦」の関係は聖書における「救拯史」であり、横の関係は「終末観」である。
聖書の全体は網の目からなり、この網は横の線と縦と交叉することからなり、66巻の諸書はその交叉にあたり、その諸書の交叉の中に無数の網の目を持つって成り立っている。「秩序」とはこの網目の総称であり、「位置」とは網の結び目、部分とはその結び目に置かれた門である。全体とはこの網によって渾一状になったものであり、この網の目的は「キリスト証言」である。



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