「聖書的説教とは」
 
アドバンストスクール公開講座〈説教の前提U〉
聖書解釈と文献批評の今日的課題
発題 廣瀬利男


5.聖書解釈の基本的課題



5.聖書解釈の基本的課題
聖書を解釈するということは何か。聖書にどのような問いを問うのであろうか。
 二つの根本的問い。
  @、「聖書とは何であるのか」・・・聖書の「現在」を問う問いである。
  A、「聖書はいかにしてできたか」・・聖書の「過去」を問う問いである。
この二つの問いによって、次の問いがなすことができる
  B、「聖書はいかに解釈せられるべきか」以上の二つの問いに答える問い。
聖書の解釈はこの三つの問いに答えが与えられるとき十全といわれる。聖書の理解を志すということは、この三つの問いを常に問い続け、これに答える努力をすることである。
1) 聖書の過去を問う。 「聖書は如何にできたか」と言う問いに立つ時、「宗教史的立場」に立つことになる。聖書は「イスラエル宗教・原始キリスト教」の発達過程の資料となる。諸書の諸資料と、その諸原史料である。
*旧約聖書は 一時代の文献の集成
*新約聖書は 一時代の原始キリスト教の文学の集成
  この立場では聖書は「正典」として永久に教会の基準とはなりえない。
  (「対立物の混合体」“差異”“顛倒”“重複”“矛盾”“相克”としての新約聖書を全体として基準とすることは不可能)
  2)聖書の現在を問う。 「聖書とは何か」今ある66巻の聖書を問うこと。
  現在の聖書は過去の文献ではなく「聖書」として決定されている。過去の生成途上の聖書の部分ではない。第二の問いは過去を問うことであって、第一の問いに対して第二の問いは補助的立場にある。「聖書学的立場」と「宗教史的立場」は順位と価値を異にする。
  この二つの問いはプロテスタントの歴史500年では無関係に問われてきた。16世紀−17世紀は「聖書とは何か」が問われ、18世紀―20世紀において「聖書は如何にしてできたか」問われ、互いに交錯する時期があったが相互反目の時代で相互理解を欠いたときであった。以上の二つの立場は目標と方法が互いに明確に区別されるべきであるにもかかわらず過去一世紀では混同されていて現在もその流れにある。二つの立場の学的差異と二つの立場の相互関係を認識しそれぞれ正しき位置において問い、正しき解釈を問わねばならない。
聖書を聖書として解釈するとはキリスト教会の「正典」として解釈することにある。文献としてだけに解釈するのではない。「聖書学的立場」で解釈する。
3)「聖書は如何に解釈されるべきか」の問いの答えは
第一と第二との意図の原理的連関が忘れられて、本文辞句の言語的または文法的意味の詮索に陥っている。辞句の言語的・文法的解釈を決して軽視してはならないが、聖書の一句または一面のみに立脚して聖書の他の一切の思想を否定するという誤謬を是正し、聖書の公同性を建設する解釈が求められる。
三つの問いは三つは一つとして全き解釈となる。換言すれば、この三つの問いは、その一つが欠けても聖書についての全き問いとはなりえない。それらは相関関係にある。一つが問われれば他の二つが予想せられなければならない。聖書に対する総括的な問いとしての「聖書は何を言うのか」の一つの問いに包括されることになる。




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